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荒城の月を思う城 明石城荒城の月の歌詞を思うとき、この明石城を思い出します |
荒城の月を思う歴史と真意荒城の月の歌詞を思うとき、この明石城を思い出します。明石城は荒れ果ててはいませんが、その歴史は荒城の月の歌詞の真意「無常」を語っているからです。明石城の歴史1617年、小笠原忠真は明石藩主として、船上城に入ってきました。ここは明石城の西、明石川の近くにありました。小笠原氏は10万石の譜代大名でしたので、将軍徳川秀忠の意向もあり、格式に見合う城を作ることになりました。 本多忠政は子である小笠原忠真と相談しながら人丸山に作ることとし、築城から町割りまで行いました。 この時、将軍徳川秀忠は旗本2〜3人と、築城費として銀一千貫を支給しています。 船上城はじめ、三木城、高砂城などの木材を使っています。 坤櫓は伏見城から持ってきたもの、巽櫓は船上城から持ってきたものが使用されたと言われます。 1619年、着工。1620年には小笠原忠真が船上城から移り、城内の建物などの工事が開始されました。 このとき天守は台石まで積まれましたが、建てられずに終わっています。 1632年、ようやく明石城を築城したのに、小笠原忠真は小倉城に移ることになりました。 1633年、松平庸直が7万石で入城しましたが、急死してしまったため、松平光重が明石城の城主となりました。 1639年、その松平光重も美濃加納藩に移ることとなり、大久保忠職が入城しました。 1649年、今度はその大久保忠職が肥前唐津藩に移ることになりました。 その後も幾度も城主が変わりましたが、老朽化が進みました。 1739年、松平直常のときに大修築が行われました。 1874年、廃城令により廃城となってしまいました。 明治16年、有志により明石公園となりました。 明治31年、 皇室の御料地になりました。 大正7年、兵庫県が、この御料地を借り受けて、県立明石公園となりました。 平成7年、大震災により石垣が崩れるなどの大被害を受けてしまいました。 平成11年、修復工事が完了。 この修復工事では、2棟の櫓をひきやで移動させ、土台や石垣を修復した後で、櫓を元の位置に戻しています。 戻した後で柱の補正や屋根などの修復をしました。同時に塀も復元されました。 平成18年、日本100名城に選定されています。 荒城の月の真意現在は立派に修復され、何事もなく元のままの姿のように建っています。しかし実際にはどれだけ城主が変わり、どれだけ壊れ、どれだけ修復されたことでしょう。 見事なたたずまいであり、とても荒れ果てた城には見えません。堂々たる姿です。 ここに上る月は、荒城の月とは言い難いです。立派な城ですから。 荒城の月の歌詞を作ったのは土井晩翠です。 土井晩翠は仏教を信仰し、深い理解がありました。 仏教の言葉に「無常」という言葉があります。これは、世の中はいつも変化していると言う意味のことを示しています。 土井晩翠は、荒城の月の歌詞では、荒れた城跡を絵姿として表現していますが、実はそういう絵姿のほかに、もっと深いところを示しているのです。 荒城の月、歌詞、四番に、「栄枯は移る」としてあります。 これが、彼の言いたかった真意なのです。「無常」と同じ意味なのです。 荒城の月の歌詞をよくよく見れば、このことが分かります。 土井晩翠は、荒城の月の歌詞をもって、人々に、「無常」を伝えたかったのです。 明石城の歴史は、荒城の月の歌詞の真意、「無常」を明確に語っているのです。 参照 明石城(Wikipedia)
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