荒城の月TOP荒城の月を思う城

荒城の月を思う城 姫路城

天守もあり絵葉書のようですが、荒城の月を思う姿は歴史にあります
   

荒城の月を思う歴史と真意

姫路城は、姫路市にある城ですが、国宝の天守もあり、絵葉書のようです。荒城の月を思う姫路城の姿は荒れ果てた城ではなく、歴史にあります。荒城の月の真意は絵姿以上に「無常」を伝えることにあるのです。
江戸時代建てられた天守や櫓等が現存し、国宝や重要文化財に指定されています。
世界遺産に登録され、日本100名城にも選定されています。白鷺城(しらさぎじょう)とも言われます。

姫路城の歴史

1346年、赤松貞範が築城したのが始まりではないかと言われます。

戦国時代から安土桃山時代ころ、黒田氏や羽柴氏が城代になっていた時、本格的な城郭に拡張されていきました。
姫路城は山陽道の交通の要となるところにあったからです。
さらに関ヶ原の戦いの後、池田輝政によって現在のような大規模な城郭へ拡張されました。

江戸時代には姫路藩の藩庁として機能していますが、城主となる大名は頻繁に交替しています。
池田氏に始まり、本多氏、榊原氏、酒井氏、松平氏らが配属され、酒井忠邦まで約270年間、6氏31代が城主を務めています。

明治時代になって陸軍の歩兵第10連隊が駐屯していました。
この際に多くの建物が取り壊されましたが、中村重遠の働きかけによって天守群や櫓群などが保存されることになりました。

太平洋戦争において2度の空襲に会っています。
しかし天守に落ちた焼夷弾が不発であった幸運もかさなり、奇跡的に焼失を免れました。
こうして大天守など多くの城郭建築が姿を残しているのです。

昭和の大修理が行われて姫路公園の中心となり、周辺一帯も整備が進められました。

幕末に新政府軍に包囲されたこともありますし、世界大戦で焼夷弾が直撃したりしているのですが、築城以来一度も戦火にさらされることのなかった貴重な城です。

しかし、城主が常に入れ替わり、31名とも48名とも言われる交代が行われているのです。

荒城の月の真意

荒城の月の作詞者は土井晩翠です。この土井晩翠は、仏教を信仰し、深く理解していたと思われます。
荒城の月の歌詞を一見しますと、荒れ果てた城跡に月が昇り、石垣にはツタが生い茂っているという絵姿を表現しています。
姫路城は荒れ果てた城ではありません。
そういう視点から見た場合、荒城の月の歌詞の意味するところの城として姫路城は含まれないのでしょうか。
ところが、土井晩翠の本当に言いたかったその真意を姫路城は語っているのです。
「無常」という意味で語っているのです。

「無常」というのは仏教の言葉ですが、晩翠は仏教を深く理解していましたので、その意味をよく知っていました。
荒城の月の歌詞において、土井晩翠は見事な絵姿を表現しています。
城は荒れ果て、石垣にはツタが生い茂っているなどです。
しかしそれは言いたいことを表すための一つの手段であり、本当に言いたかった真意は「無常」を人々に伝えることだったのです。
荒城の月の歌詞四番に、「栄枯は移る」とあります。
「無常」と同じ意味なのです。無常は常は無いと書いてありますが、常というのはいつまでも変らないと言う意味ですから、いつまでも変らないものは無い、つまり、この世の中のものは全て移り変わると言う意味です。
「栄枯は移る」と同じ意味なのです。

晩翠はこのことを荒城の月の歌詞をもって人々に伝えたかったのです。
姫路城は見事に修復され、当時の姿を見せていますが、これは拡張に拡張を重ねられた結果の姿でもあり、修理されたものです。
また、そこに住んでいた人は、つまり城主は交代に交代を重ねています。
姫路城はひと時も同じ状態であったことは無いのです。
あのように立派な姿なのに、常に時間と共に変わり続けているのです。

荒城の月の本当に言いたかったのは、この「無常」です。真意は絵姿ではなく、ここにあるのです。
荒城の月を思うとき、姫路城の歴史はその真意を語ってくれるのです。

参照 姫路城(Wikipedia)

荒城の月TOP 前頁