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荒城の月を思う城 高取城国内で最大規模の山城。天守や櫓が立ち並び大名屋敷までありました |
荒城の月を思う歴史と真意荒城の月を思う高取城は、奈良県高取町にあった城。国内で最大規模の山城。天守や櫓が立ち並び、二の丸には大名屋敷までありました。高取城の歴史1332年、越智邦澄が築城したのが始まりと伝えられます。越智氏の高取城の支配は長く続き、戦国時代には越智氏の本城となっていました。 1532年、天文の錯乱といわれる戦いが起こっています。 1580年、織田信長によって一旦は廃城となっています。 1585年、高取城には秀長の重臣脇坂安治が入りましたが、後に同じく重臣の本多利久に変わりました。 1589年、利久は新しい設計として築造しました。 本丸には、多聞櫓で連結された3重の大小の天守が作られ、二の丸には大名屋敷が造営されました。 城内には三重櫓が17基建ち並んでいます。郭内には侍屋敷も整備されて他には類を見ない広壮な山城となりました。 家臣団は、山麓のに城下町を営みました。 1600年、石田三成は高取城を攻めましたが、敗退しています。 1640年、旗本の植村家政が新たな城主となりました。 以後、明治維新まで植村氏が14代にわたって城主となっています。 明治6年、廃城となりました。 建造物の大半が撤去され、近隣の寺院などに売却されました。 明治20年頃まで天守など主要建造物は残っていましたが、山頂であるため管理されず、自然倒壊したとされます。 明治24年ごろに全ての建物の取り壊しが行われました。 遺構は人里離れたことが幸いし、崩壊することなくほぼ完全に残っています。 しかし、樹木が生長し、管理や補修が充分でないため石垣の形が崩れたりしている箇所もあります。 昭和28年、貴重な城郭として国の史跡に指定され、平成18年、日本100名城に選定されました。 荒城の月の真意荒城の月を思う全くの荒れ果てた城跡です。石垣はたくさん残っていますし、本当にツタが生い茂っています。荒城の月でいう絵姿によく合います。 荒城の月の歌詞は土井晩翠の作詞によるものです。 土井晩翠は詩を造る技量が人並み外れて高く、情景を素晴らしく表現しています。 栄えていた城も今は荒れ果てているとしてあります。 荒城の月、歌詞、四番には「栄枯は移る」とされています。 実はこれが土井晩翠の言いたかった、真意なのです。 「栄枯は移る」は、「無常」と同じ意味になりますが、本当は歌詞の中で無常としたかったほどでしょうが、これは言葉が難しく、宗教的な用語であるため採用はせず、「栄枯は移る」としているのだと思われます。 しかし、晩翠は、荒城の月の歌詞全体をこの「無常」に結び付け、人々に世の中は無常なのだと伝えたかったのです。 土井晩翠がなぜ「無常」を示したかったのかと言いますと、それには理由があります。 晩翠は実家が菩提寺の檀家総代を務めていたため仏教になじみ、仏教を信仰しています。 この仏教は奥が深く、なかなか理解できるものではありませんが、晩翠は相当理解を深めていたものと思われます。 そのため、仏教の根本概念である「無常」をよく理解し、おそらく自分自身がこれを心に止めていたものと思われるからです。 荒城の月で彼はこのことを述べたかったのです。 荒城の月を思うとき、高取城の歴史は見事に晩翠の思う真意、「無常」を語りかけてくれるのです。 参照 高取城(Wikipedia)
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