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荒城の月を思う城 鳥取城荒城の月を思う絶好の景観になっており、「無常」を語っています |
荒城の月を思う歴史と真意鳥取城は荒城の月を思う正に絶好の景観になっています。天守は無く、ただ石垣にはツタが生い茂っています。更に鳥取城の歴史は荒城の月の真意、「無常」を物語っています。鳥取城の歴史これ以前から築城されていたと考えられますが、城主が正式に確認されるのは、元亀年間になってからの武田高信とされています。高信は因幡山名氏の家臣でしたが、しだいに勢力を増し、永禄年間には鳥取城を拠点とするようになっていました。 1573年、山中幸盛と尼子残党による攻撃を受け、劣勢となった高信は和議を結び城を明け渡しています。 同年、吉川元春に攻められ毛利豊元が城主となりました。 1574年、再度尼子氏残党に攻められ、降伏しています。 1575年、尼子残党が鳥取城を去り、豊国が城主となりました。 1580年、織田信長の指示による羽柴秀吉の第一次鳥取城攻めがあり、3か月の籠城戦となりましたが、豊国は和議を申し出、信長へ降伏しました。 ところが、同月毛利氏によって、鳥取城は牛尾春重が城将として入ることになりました。 その後も何人かの城主が入れ替わり、1581年毛利氏の重臣吉川経家が城主となっています。 秀吉は2度目の鳥取城攻撃をおこない、兵糧攻めを実施しました。城主の経家はこの凄惨たる飢餓状況に、自決し開城しました。 関ヶ原での戦い後、東軍の亀井茲矩らに攻められ開城しています。 1617年、さらに池田光政が32万5,000石で入府、鳥取城も大大名となり、それに相応しい規模に拡張されました。 光政によって城下町も整備されました。 明治6年、廃城令では存城とされ、陸軍省の所管となりましたが城は必要なしとの観点からすべての建造物は払い下げられました。 唯一現存していた中仕切門は、昭和50年の台風によって倒壊しましたが、同年に再建されています。 現在は天守台と石垣が残っており、国の史跡に指定されています。 荒城の月の真意鳥取城は大変な歴史を持ち、分かっているだけで、6度の落城となっています。そのたびに多くの犠牲が出ているのです。 この城の様子からは、栄華の移り変わりというよりは、権力の移り変わりと言う気がします。 現在は復元された城門があるだけで、あとは石垣だけです。 正に「荒城」です。 しかし石垣は修復されて形がはっきり残っています。ここに月が昇ってくる様子は「荒城の月」に詠われる歌詞の状景を思うことが出来ます。 荒城の月は土井晩翠の作詞によるものですが、土井晩翠はこのような情景、絵姿だけを表しているのではなく、もっと深い意味を込めているのです。 それは、仏教でいう「無常」です。無常観とも言われますが、これは仏教の根底の概念であり、仏教の心です。 土井晩翠は檀家総代の家に生まれ育ったため、仏教を深く理解していたものと考えられます。 このため、仏教の「無常」という考え方を荒城の月の歌詞の中に織り込んでいるのです。 荒城の月、歌詞、四番に「栄枯は移る」とされています。 これは正に「無常」を意味しています。 世の中の全ては時間と共に移り変わり行くものであると言うことです。 鳥取城はどれだけ変わったことでしょう。 歴史がそのことを語っています。 土井晩翠は、荒れ果てた石垣や月をもって、誠に鮮やかに絵姿を表現していますが、荒城の月の中で本当に言いたかったのはこの「無常」なのです。 この詩を通して、人々に「無常観」、世の中は常に終わるものであると言う「無常」を伝えたかったのです。 荒城の月の真意はここに在るのです。 荒城の月を思うとき、鳥取城の歴史はまさにその真意、「無常」を語ってくれているのです。 参照 鳥取城(Wikipedia)
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