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荒城の月を思う城 松江城天守が現存し綺麗ですが、その歴史は無常を語っています |
荒城の月を思う歴史と真意松江城は天守が現存し、他の建物も復元されて非常に綺麗な姿をしています。「荒城」とは言えませんが、荒城の月を思うとき、松江城の歴史は作詞者土井晩翠の真意、無常を語ってくれます。無常観は仏教の根本的概念です。松江城の歴史鎌倉時代から戦国時代、末次城がありました。1600年、 関ヶ原の戦いの戦功により、堀尾忠氏(堀尾吉晴の子)が、24万石で月山富田城に入いり松江藩が成立しました。 しかし月山富田城は近世としての城下町形成には不都合なため、宍道湖と中海を結ぶ太田川の近くに、末次城跡に築城することが検討されました。 1607年、 末次城のあった亀田山に築城を開始されました。 1611年、松江城は落成しましたが堀尾吉晴は完成目前で急死しています。 1633年、堀尾忠晴没堀尾氏は3代で改易となりました。 1634年、京極忠高が26万石で入封し、三の丸を造営しました。この結果、松江城の全容が完成しました。 1637年、忠高は嗣子のないまま没し、京極氏は一時廃絶となりました。 1638年、松平直政が18万6千石で城主となり、以後、明治維新まで続きました。 1871年、廃藩置県により廃城となりました。天守以外の建造物は払い下げられすべて撤去されましたが、天守は有志により買い戻され、保存されることになりました。 昭和2年、所有者である松平家が天守を含む城地すべてを松江市に寄付し、公園として開放されることになりました。 昭和9年、国により史跡に指定され、昭和10年、天守が国宝に指定されています。 昭和25年〜昭和30年、天守の解体修理が行われました。 昭和35年、本丸一ノ門と南多聞の一部が復元され、その後も次々と建物が復元されています。 平成18年、日本100名城に選定されました。 荒城の月の真意松江城は非常に綺麗な姿をとどめ、とても荒れ果てた城とは言えません。天守も当時のまま残っています。 ここに月が昇ってくれば絵葉書にでもしたいくらいの絵姿になります。 荒城の月の歌詞では、建物は無く、ただ石垣だけが残り、その石垣にはツタが這っているとされていますから、少し情景は違うことになりますが、実はこの松江城はしっかりと荒城の月の真意を語っているのです。 それは、「無常観」という意味の、荒城の月の真意を示しているからです。 荒城の月の歌詞を書いたのは土井晩翠ですが、土井晩翠は菩提寺の檀家総代を務める家に生まれ育ち、仏教を信仰していました。 その仏教の根底となる概念の中に「無常」という言葉があります。 無常というのは、常が無いと書きますが、この常というのは未来永劫変わらないと言うことを示していますので、この世の中には変わらないでいられるものは無いと言うことを示しています。 土井晩翠はこの「無常」という言葉の意味をしっかり分かっており、人々にこの「無常観」を伝えたかったのです。 このことを伝えるために「荒城」の状景をも述べているのですが、その光景以上に言いたかったのがこの「無常」なのです。 荒城の月、歌詞、四番に、「栄枯は移る」とされています。 これはまさしく世の中は移り変わるものであると言う意味です。「無常」とおなじことです。 土井晩翠は荒城の月の中で人々に伝えたかった本当の意図は、この「無常」なのです。 荒城の月の真意は無常であることを示すところにあるわけです。 松江城の歴史は常に移り変わっていく様を如実に語っています。 荒城の月を思うとき、この松江城の歴史は、荒城の月の真意を物語っていることが分かるのです。 参照 松江城(Wikipedia)
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