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荒城の月を思う城 月山富田城

荒れ果てて荒城の月を思う城跡ですが、この城の歴史は無常観を示しています
   

荒城の月を思う歴史と真意

月山富田城(がっさんとだじょう)は、安来市にあった城です。今は荒れ果ていかにも荒城の月を思う城跡ですが、この城の歴史はそれ以上に土井晩翠の真意、「無常」を語っています。

月山富田城の歴史

1221年、承久の乱により、佐々木義清が月山富田城に入りました。

1341年、惣領塩冶高貞が幕府の追討を受けています。
1343年、佐々木高氏が守護となり、吉田厳覚を守護代としています。
しかし吉田厳覚は山名時氏に破れ、当城は山名氏領となりました。
1364年、山名時氏が出雲国守護となり代々歴任しました。
1391年、 山名満幸は明徳の乱で敗れ、京極氏が守護となりました。

1484年、塩谷掃部介が守護代となっています。
1486年、尼子経久は不意をついて当城を奪回し、月山富田城を拠点に勢力を拡大しました。
1537年、尼子経久は孫詮久(晴久)に家督を譲りました。

1565年、毛利氏の包囲を受け、籠城しましたが、兵糧が尽き、開城し、城代として口羽通良が居城しました。
1567年、城代として天野隆重が居城しました。
1569年、尼子氏旧臣山中幸盛らが当城を攻めましたが、落ちませんでした。

1611年、堀尾忠晴は松江城に移り廃城となりました。

平成18年、日本100名城に選定されました。
平成26年、発掘調査が行われています。

荒城の月の真意

月山富田城の歴代城主は27名になります。実に変化の激しい歴史を持っています。
小高い山の上にある城ですが、現在は見る影もなく、わずかに石垣の一部が残っている状態です。
正に「荒城」の状況で、ここに月が昇れば荒城の月の絵姿となります。

確かに絵姿として荒城の月のいう通りですか、荒城の月の言いたかったところはその絵姿だけではありません。
その真意はもっと深いところにあります。
「無常観」ということです。

荒城の月の歌詞は土井晩翠が作りました。
土井晩翠は仏教を信仰し、深く理解しておりました。この仏教の言葉に「無常」という言葉があります。
無常というのは、この世のものは全て移り変わり、同じ状態でいられるものは無いのだと言う意味です。
土井晩翠が、荒城の月で言いたかった真意は「無常」なのです。
そのための一つの手段として荒れ果てた城の様子を言い表していますが、本当はその姿だけでなく、世の中は「無常」であると言うことを人々に伝えたかったのです。

荒城の月、歌詞、四番に「栄枯は移る」としてあります。
これは、「無常」にほかなりません。
このことを人々に伝えたかったのです。
これが荒城の月の真意なのです。
荒城の月を思うとき、月山富田城は情景と共にその歴史がその真意、「無常」を語ってくれています。

参照 月山富田城(Wikipedia)

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