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荒城の月を思う城 津和野城石垣の状景もさることながら、歴史は土井晩翠の言いたかった真意を示しています |
荒城の月を思う歴史と真意荒城の月を思うとき、津和野城の歴史はその真意「無常」を見事に物語ってくれます。石垣の状景もさることながら、土井晩翠の言いたかったことを示しているのです。津和野城の歴史1282年、吉見頼行が地頭としてこの地に赴任し御嶽城や徳永城を築きました。1295年、霊亀山南側に三本松城の築城を開始しました。 1324年、完成し、頼行以降、津和野城は吉見氏14代の居城となりました。 1554年、100日以上に及ぶ三本松城の戦いといわれる籠城戦が起こっています。 1600年、関ヶ原の戦いにおいて西軍が敗れ、東軍に属した坂崎直盛が3万石で入城しました。 直盛は石垣を多用し、近世城郭へと大改修を行いました。大手の位置を改め、出丸や天守を築きました。 しかし直盛は1616年に千姫事件で他界し、坂崎氏は改易となりました。 1617年、因幡国鹿野藩から亀井政矩が4万3千石で入城しました。 その後、明治維新まで11代にわたり亀井氏の居城となっています。 亀井氏により居館や外堀が設けられ、城下町が整備されましたた。 1686年、落雷による火災が発生し天守が焼失しました。 明治4年、廃藩置県となり廃城となりました。山上の城は解体されました。 昭和17年、国の史跡に指定されています。 昭和46年、山上への観光リフトが完成しました。 平成18年、日本100名城に選定されました。 荒城の月の真意リフトで上がってみますと、正に「荒城」そのものです。石垣があり、ツタが生い茂っています。月が昇れば荒城の月の歌詞に言う情景そのものと言えます。 しかし荒城の月を思うとき、この津和野城の荒れ果てた姿をみて、その歴史を思えば更に深い「無常」を感じます。 荒城の月は土井晩翠の作詞ですが、土井晩翠はこのような「荒城」としての状景のみでなく、もっと深い意味を人々に伝えようとしていたのです。 その真意は「無常観」です。 無常というのは、この世の中のものは全て移り変わると言う、仏教の言葉です。 土井晩翠は菩提寺の檀家総代を務める家に生まれ、仏教を深く理解していましたので、この世の無常を知っていました。 荒城の月の歌詞を作るとき、できればこの無常という言葉を入れたかったのでしょうが、さすがに宗教用語を使うことは避けたと思われますが、彼の言いたかったことはこの「無常」なのです。 荒城の月、歌詞四番を見てください。「栄枯は移る」としてあります。 これは無常と同じ意味です。 これが彼の言いたかった真意なのです。 荒城の月の歌詞をもって、土井晩翠が人々に伝えたかったその真意は、世の「無常」なのです。 荒城の月を思うとき、この津和野城の歴史を思い描くと、その歴史は世の無常を語ってくれるのです。 土井晩翠の真意を物語ってくれるのです。 参照 津和野城(Wikipedia)
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