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荒城の月を思う城 津山城

模擬天守と少しの櫓がありますが、素晴らしい石垣が残っています
   

荒城の月を思う歴史と真意

津山城は現在模擬天守と少しの櫓があり城の形になっていますが、素晴らしい石垣が残っています。荒城の月を思うとき、津山城の歴史は「無常」を語っているように思えます。

津山城の歴史

1441年、山名教清が、現在の津山城の場所に鶴山城を築いたのが最初です。

1603年、森忠政が津山城の築城を開始し、地名を「鶴山」から「津山」に変えました。
1616年、13年をかけ完成しました。天守、櫓、城門など80余りが建ち並ぶ城郭となりました。

1697年、森家は断絶となり、浅野綱長の預かりとなりました。
1698年、松平宣富が10万石で入封し、明治4年まで城主となっていました。

1809年、火災により本丸御殿が焼失しています。

明治6年、廃城令により競売にかけられました。
明治8年、天守や櫓など全ての建物が壊されました。

明治33年、城跡は鶴山公園となりました。津山町により保存整備され、桜の木が多数植えられています。
昭和38年、国の史跡に指定されました。
平成18年、日本100名城に選定されています。
平成25年、創建当時の1/2の模擬天守を期間限定で作られています。

荒城の月の真意

明治の初めころまでは天守が実在し、その時の写真や絵が残っています。
素晴らしい城であり、全く見事なものです。
しかし今は見る影もなく、模擬の天守と少しばかりの櫓や塀があるだけです。
石垣は見事に残されています。手入れも行き届き、あまりツタも生えていません。

昔の様子とは大きく異なりますが、石垣に上る月は、荒城の月を思わせます。
しかし、在りし日の津山城やその歴史を思うとき、荒城の月の歌詞を作った土井晩翠のことが思い出されます。
荒城の月は「荒城」や月の姿を絵姿としてとらえていますが、土井晩翠の本当に言いたかったのはもう少し深いところにあります。
絵姿を言ってはいますが、それよりも彼は世の「無常」を人々に伝えたかったのです。

土井晩翠は仏教を信仰し、仏教の言葉である「無常」について深い理解をしていました。
無常というのは、常が無いと書かれますが、世の中にはいつまでも変らないでいられるものは無いと言う意味です。
このことを荒城の月の歌詞を通して、人々に伝えたかったのです。

荒城の月、歌詞、四番に「栄枯は移る」とされています。
これはいつまでも続くことは無いと言うことであり、無常と同じことを表しているわけです。
彼の伝えたかった真意はここに在るのです。
荒城の月を思うとき、津山城の歴史は正に土井晩翠の思う真意を語っています。
天守が作られ、住む人が変わり、やがて取り壊されてしまうと言う歴史なのです。
まさに無常ではありませんか。栄枯は移るのです。
土井晩翠は荒城の月の歌詞の中にこの無常観を明確に示しているのです。

参照 津山城(Wikipedia)

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