荒城の月TOP荒城の月を思う城

荒城の月を思う城 松山城

天守が現存し「荒城」とは言い切れませんが世の無常を語りかけてくれます。
   

荒城の月を思う歴史と真意

松山城は当時の天守が現存し、一部には石垣だけが残っていますが建物群も修復されています。「荒城」とは言い切れませんが、その歴史は荒城の月を思うとき、世の無常を語りかけてくれます。
この松山城は岡山県高梁市内にあった城ですが、愛媛県にあった松山城を初め、各地の松山城と区別するため、「備中松山城(びっちゅうまつやまじょう)」と呼ばれることが多いです。

松山城の歴史

1240年、秋庭三郎重信が備中の地頭となり大松山に城を築いたのが始まりとされています。
1331年頃、高橋宗康が小松山まで拡張しています。

城主は時代と共に変遷し、上野氏、庄氏、三村氏と変っています。

戦国時代、三村元親の時、大松山・小松山を含めた大きな城塞となり、現在もその石垣の一部が残っています。

1570年、元親が出撃した際に、庄高資に松山城を占拠されました。
1571年、庄高資を討ち、松山城を奪還しています。

1574年、三村元親は毛利氏から織田信長に寝返りました。
その翌年、三村氏と毛利氏の戦いが起き、毛利方の小早川隆景によって城は落され、元親は自害しました。

そののち、城主は池田氏、水谷氏、安藤氏、更に石川氏、板倉氏と入れ替わっています。
1600年、関ヶ原の戦いで毛利氏が敗れたため、徳川幕府が城番を置きました。
この頃、山麓に御根小屋が築かれています。

1681年、天守建造など大修築が行なわれ、城は現在の姿となりました。

1693年、水谷家は断絶し、浅野長矩の家老・大石良雄が城番となりました。
城主は更に安藤重博、石川総慶 板倉勝澄と変わっていますが、明治時代まで板倉氏が8代続いています。

明治6年、廃城令により御根小屋は取り壊されたが、山上の建物は放置され次第に荒廃していきました。
昭和初期、崩壊寸前の山城を調査し修復されました。
昭和16年、天守、二重櫓、三の平櫓東土塀の3棟が重要文化財に指定されています。
平成6年、本丸の復元整備が行われ、続いて本丸南御門や土塀などが復元されました。
平成18年、日本100名城に選定されています。

荒城の月の真意

荒城の月は土井晩翠の作詞です。
土井晩翠は仏教を信仰し、深く理解していました。
仏教の言葉に「無常」という言葉がありますが、これは仏教の根本的概念であって、世の中のものは全て変化しないではいられないと言うことを意味しています。
土井晩翠は荒城の月の歌詞をもってこの「無常」を人々に伝えたかったのです。
しかし宗教用語を直接用いることは適当でないと考え色々の工夫をしたのではないでしょうか。
「荒城の月」という題名は、最初は「荒城月」となっていましたが、後で直されています。
無常観を伝えるために「荒城」と「月」の状景を言い表しています。
誰が見ても、ああ、ここには昔お城があったのだろうな、と思えるからです。
その絵姿の描画は人並み外れた見事な詩になっています。

しかし土井晩翠はそういう情景的絵姿を荒城の月で表現しているだけではありません。
なんとかして「無常観」を世の人々に伝えたかったのです。
これが土井晩翠の真意であり、荒城の月の真意なのです。

無常というのは、常が無いと書かれますが、常というのはいつまでたっても変わらないと言うことを意味しますので、この世の中にはいつまでも変らないでいられるものは無いという意味になります。
荒城の月の歌詞、四番に、「栄枯は移る」とされています。
栄えるにしても、衰えるにしても、それは必ず変わっていくものであると書いたわけです。
これはまさしく「無常」を意味しています。
土井晩翠はこの世の中は無常であると言うことを伝えたかったのです。
荒城の月の真意はここに在ります。
絵姿の描写も優れていますが、それ以上に、無常観を伝えたかったのです。

荒城の月を思うとき、松山城の歴史は正に「無常」を物語っています。
状景もさることながら、この歴史をかみしめてみた時、土井晩翠の言いたかった真意を見ることが出来るのです。

参照 松山城(Wikipedia)

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