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荒城の月を思う城 鬼ノ城7世紀後半に大和朝廷が倭の国(日本)防衛のために築いたものと言われます |
荒城の月を思う歴史と真意鬼ノ城は築城年は不明ですが、発掘調査では7世紀後半と考えられます。大和朝廷は倭の国(日本)防衛のために吉備高原の山頂部に石塁・土塁による城壁を築いたものと言われます。鬼ノ城の歴史発掘調査では7世紀後半に築かれたとされています。大和朝廷は、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した後、、対馬から畿内に至る重要な場所に様々な防御施設を築いています。 鬼ノ城は、吉備高原の南端、標高397メートルの鬼城山の山頂部に作られました。 すり鉢を伏せた形の山ですが、その8合目付近の外周を、石塁や土塁によって囲まれています。 この城壁は鉢巻状であり、長さ2.8キロメートルに渡っています。 城壁は土塁を主体とし、城門4か所、角楼1か所、水門6か所などが設けられています。 発掘調査により、城壁を保護するための敷石が見つかっています。これは、国内初のことです。 城内には、礎石をもつ建物跡が7棟、掘立柱の建物跡が1棟、その他に溜井、烽火場・、鍛冶などの遺構が見つかっています。 現在、西門と角楼、土塁が復元されています。 その他、城門や展望所、見学路などが整備され、「ビジターセンター」と駐車場を整え一般公開されています。 荒城の月の真意鬼ノ城は遠い昔の話です。普通に考える天守閣を備えたような城とは異なります。 戦国時代のように自分の領地を守るためではなく、日本の国全体を外国から守るために大和朝廷が作ったものです。 苔むした石垣が散在したことから、「キのシロ」と呼ばれていました。「キ」は、後に「鬼」の文字をあてたようです。 しかし、その遠い昔に国を守ろうとした人々が、力を合わせてこの城を作ってくれたのです。 私たち現代の人は、昔の人の苦労や努力をどれだけ知っているでしょう。ただ昨日のことしか知らないのがほとんどではないでしょうか。 そんな中で鬼ノ城のこのような歴史を知ると、荒城の月の真意に触れることが出来るのです。 荒城の月の作詞者は土井晩翠です。 彼は仏教を信仰し、「無常」ということについて深く理解していました。 無常というのは、世の中の全ては時と共に移り変わっていくと言う意味です。 荒城の月の歌詞は非常に綺麗な絵姿を表現していますが、その奥には、晩翠が語ろうとした真意があります。 それは、この世は「無常」なのだと言うことを人々に伝えたいと言う思いです。 荒城の月の歌詞四番に、「栄枯は移る」とされています。 時と共に変わっていくと言っているわけですから、「無常」と同じ意味になります。 遠い昔に鬼ノ城が作られ、やがてそれが埋もれて、復元されてくる。 そんな歴史や人々の思いを胸にしたとき、荒城の月の真意「無常」を知ることが出来ます。 荒城の月を思うとき、この鬼ノ城の歴史はその真意、「無常観」をまざまざと物語ってくれるのです。 参照 鬼ノ城(Wikipedia)
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