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荒城の月を思う城 福山城

この城の歴史は荒城の月の真意、「無常」を語ってくれます
   

荒城の月を思う歴史と真意

福山城は天守が再建され荒れ果てた城とは言えませんが、荒城の月を思うとき、この城の歴史は作詞者土井晩翠の真意、「無常」を語ってくれます。

福山城の歴史

1615年、一国一城令が発布された後、1622年に竣工した城です。
大規模な築城で、近世城郭としては最後の例となりました。

1619年、福島正則が改易され、 徳川家康の従兄弟にあたる水野勝成 が10万石で入城しています。
西日本の外様大名に対するそなえとして、一国一城令が出されていた時期としては異例の新規築城であったといわれます。

南側は干潟でしたが、干拓されて城下町となり、福山と名づけられました。

低湿地な場所での築城であったため、大水害を受けるなど、困難を極めたといわれます。
城の用材には廃城となった神辺城や、伏見城の遺材も使用されました。
伏見城から移築された建物は伏見櫓や御殿(伏見御殿)など多数の建物があります。
3年近くの歳月要して福山城は完成しました。

城主は、勝成の死後、勝俊、勝貞、勝種、勝岑と続きますが、福山藩は一時天領となっています。

1700年、松平忠雅が入封しました。
しかし、忠雅は10年後移封させられ、阿部正邦が入封しました。

その後、正福、正右、正倫、正精、正寧と変わっています。

1730年には本丸御殿の奥向部分が移され、1750年には二の丸の城米蔵が取り壊されています。
このように必要性の少なくなった施設は次第に撤去されて行きました。

王政復古により新政府軍は福山藩を朝敵とし備後国へ侵攻しました。
福山藩は恭順を許され、戦火から守られましたが、後に不遇の扱いを受けています。

明治6年、廃城令により廃城となりました。ほとんどの施設は払い下げられ、天守と伏見櫓などを残すのみとなりました。
敷地のほとんども売却されました。
明治29年公園として認可され、明治30年に天守、伏見櫓などの修理が行われました。
しかし、昭和20年、福山大空襲により天守など城下に残る多くの文化財は焼失しました。
昭和41年、天守、月見櫓、御湯殿が鉄筋コンクリートで復興されました。
平成18年、日本100名城に選定されました。

荒城の月の真意

福山城は天守が復興し、石垣もしっかりしているため一見しては「荒城」には見えません。
しかし在りし日の福山城は広大な土地に色々の建物や櫓が立ち並び、壮大な景観を呈していました。
そのことから見れば、現在の姿は寂しい限りです。

荒城の月の歌詞は土井晩翠が作詞したものです。
土井晩翠は仏教を深く信仰し、世の「無常」をよく知っていました。
このため、荒城の月の中で無常という言葉を使いたかったのでしょうが、これは宗教語であるため使用しなかったのではないかと思われます。
しかし、土井晩翠はこの「無常」を荒城の月において人々に伝えたかったのです。

荒城の月の歌詞は実に見事に情景を表しています。荒れ果てた城の石垣にはツタが生い茂り、月が照らしているなどという絵姿を見事に表しています。
しかし土井晩翠の真意はもう少し深いところにあります。
このような情景を言っているのはその真意を表現するための手段であり、真意は「無常観」を世の人々に伝えることにあるのです。

無常とは、世の中の全てのものは同じ姿をとどめることなく、必ず変化していくと言う意味です。

荒城の月、歌詞、四番に、「栄枯は移る」としてあります。
これはまさしく「無常」を言っているわけです。
彼の真意はこのことを伝えたかったのです。

荒城の月を思うとき、福山城の歴史は正に「無常」そのものであり、晩翠の真意を物語っていることが分かります。

参照 福山城(Wikipedia)

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