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荒城の月を思う城 広島城

現在の建物は再建されたものですが、その歴史は荒城の月の真意を語っています
   

荒城の月を思う歴史と真意

広島城は昭和20年まで天守などが現存していましたが原子爆弾によって倒壊し、現在見られる建物はすべて再建されたものです。荒れた城跡には見えませんが、その歴史は荒城の月の真意を語っているのです。

広島城の歴史

広島城は、現在の広島市に築かれた城です。
ここは太田川下流域であり、三角州を形成して小島や砂州に小規模な集落がありました。
戦国時代には毛利元就が武田氏を滅ぼし、当地は毛利氏によって支配されました。

毛利輝元時代の末期には、防護を主目的とした城から、権力のシンボルとしてその周りを城下町とする「近世城郭」建築の時代になってきました。
150万石以上の太守であった毛利氏には、山城である吉田郡山城は手狭なものとなり始めたため、平野がある海沿いを考え始めました。
1588年、輝元は大坂城や聚楽第を訪れて近世城郭を見、新しい城の必要性を感じたと言われます。

1589年、輝元は太田川下流域を検地した結果、「最も広い島地」である五箇村に築城することを決めたました。
同年4月に築城が開始されましたが、構造は大坂城を参考にしたものと言われます。

しかし、秀吉は毛利氏を弱体化させなければならないと考え、如水を派遣した、という話があります。事実、浅瀬に築城したためその普請には相当な出費もありました。
1590年、堀と城塁が竣工し、1591年輝元は入城しました。

1592年、秀吉は文禄の役を指揮するため途中で立ち寄って城内を見物しています。
1593年、石垣が完成、1599年、全工事が完了し落成しました。
「広島」という名は、「最も広い島地」をもとに、この頃に付けられたと言われます。
完成当初は、三重の堀が巡らされ、実戦的な城構えで、大坂城に匹敵する城だったといわれます。

毛利輝元は関ヶ原の戦いで減封されて広島を去りました。

1600年、福島正則が城主となり、改築されています。
福島氏時代、城の整備や城下町づくりが本格的に行われました。外郭が整備され、約1キロメートル四方というの広大な城となりました。

徳川家康はこの大規模な城整備を怒り、1609年正則は謹慎となりました。
1619年、正則は武家諸法度を破った改築であるととがめられ、転封されました。

同年、浅野長晟が入城しました。
以降は浅野氏の居城となっています。明治時代に至るまで約250年間続いています。
1624年、安芸国の地震では石垣や多門などが崩壊し、以降数度地震災害があったという記録が残っています。

1864年、第一次長州征討においては、幕府軍の本営として使われました。

明治4年、廃藩置県。浅野氏による藩政体制は終り、広島県となりました。
明治8年、歩兵第11連隊が設置され、さらに西練兵場が設置されています。解体や火事により江戸時代の建物は失われて行き、本丸御殿も全焼ししています。
明治40年代には外堀や運河の埋め立てが始まり、大正7年には道路や広島電気軌道が作られています。
それでも太平洋戦争末期まで、天守、東走櫓、裏御門や太鼓櫓など、江戸時代の建物は残っていました。

昭和20年、原子爆弾投下。建物は壊滅しました。

昭和33年、天守再建が決定し昭和32年着工、翌年竣工しました。
築城400周年を迎えたことにより改修が行われ、平成元年から平成6年にかけて、二の丸の復元などが行われ、博物館も整備されました。
平成18年、日本100名城に選定されています。

荒城の月の真意

現在は戦後の建物とはいえ、昔の姿を思わせる立派な城の姿になっています。
荒城の月の歌詞では、荒れ果てた城の石垣にツタが生い茂っている情景をまざまざと表されていますが、そういう絵姿からはとても「荒城」とは思えません。
しかし、この荒城の月を思うとき、広島城はこの歌詞の真意を物語ってくれるのです。

荒城の月の作詞者は土井晩翠です。
土井晩翠は仏教を深く信仰し、「無常」ということについてよく理解していました。
このため、かれは荒城の月の中で、「無常」という言葉を使いたかったのでしょうが、これは宗教用語であり、差し控えたものと考えられます。
しかし土井晩翠がこの荒城の月で言いたかったその真意は、「無常」を人々に伝えるというところにあったのです。

無常というのは、常が無いと書きますが、その「常」はいつまでも変らないと言うことを意味しますから、無常は、変わらないものは無いと言意味です。
無常は仏教の根本概念です。
土井晩翠はこのことを人々に伝えたかったのです。
そのため、かれは、荒城の月歌詞四番において、「栄枯は移る」としています。
栄枯はそのまま続くことは無く、変わらざるを得ないのだと言っていますから、これは無常観と同じ意味になります。

土井晩翠は荒城の月をもって、世の人々に「無常」であることを伝えたかったわけです。
無常を伝えること、これが荒城の月の真意です。

荒城の月を思うとき、広島城の歴史はまさに無常を語ってくれます。
広島城の歴史は、土井晩翠が作った荒城の月の真意の通りなのです。

参照 広島城(Wikipedia)

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