荒城の月TOP荒城の月を思う城

荒城の月を思う城 徳島城

今は石垣だけが残っており、荒城の月の真意、「無常」を物語っています
   

荒城の月を思う歴史と真意

徳島市にあった城ですが、今は天守や建物は無く、石垣だけが残っています。荒城の月の歌詞そのもののようですが、荒城の月の真意は絵姿だけでなり、「無常」を伝えることであり、この城の歴史はこの真意を物語っています。

徳島城の歴史

1385年、細川頼之が現在の地に小城を築きました。

戦国時代には、阿波の地は戦乱の地となり、しばしば城主が入れ替わりました。

1582年、長宗我部元親が来て阿波は平定されました。

1585年、豊臣秀吉から蜂須賀家政が阿波の国をもらい、18万6000石となりました。
入城早々、現在の地に大規模な城を作りました。
以後徳島藩蜂須賀氏25万石の居城となっています。

明治6年、廃城令が出されました。
明治8年には鷲之門を除くすべての建築物が撤去されました。

明治38年、城跡の大半が徳島公園としてとなり、1910年一般に開放されました。
昭和16年、表御殿庭園が国の名勝に指定されています。
明治以降の城内には石垣と堀、庭園、鷲之門のみが残りました。
昭和20年、徳島大空襲により、その鷲之門も焼失してしまいました。
平成元年、鷲之門が復元されています。
平成18年、日本100名城に選定されました。

荒城の月の真意

堀を前にした徳島城の石垣は実に見事です。更にその後ろには城山があります。
ここに月が昇ってくれば、、荒城の月にいう絵姿の通りです。
土井晩翠作詞ですが、実に見事に情景を表しています。

しかし、荒城の月で土井晩翠が言いたかった本当の意味、真意はもう少し深い所にあります。
それは、荒城の月を介して、世の無常を人々に伝えると言う思いです。

土井晩翠は仏教を深く信仰し、仏教の根底である「無常」ということをよく理解していました。
無常というのは、常であることはあり得ない、世の中は移り変わるものであると言う意味です。
このことを出来るならば荒城の月の歌詞の中で直接言いたかったのでしょうが、この言葉は宗教用語であり、思いとどまったのではないでしょうか。

荒城の月、歌詞、四番に、「栄枯は移る」と言っています。
「栄」であれ、「枯」であれ、移り変わっていくと言ったのです。
これは「無常」と同じ意味になります。
土井晩翠は、「栄枯は移る」という言葉をもって「無常観」を世の人々に伝えたかったのです。
世の中は「無常である」ということを伝えることが、荒城の月の真意なのです。
絵姿を綺麗に表現していますが、それだけではなく、こういう真意を持っているのです。

荒城の月を思うとき、徳島城の歴史はその移り変わり、「無常」を見事に物語っているのです。
荒城の月の真意を徳島城の歴史は語っているのです。

参照 徳島城(Wikipedia)

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