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荒城の月を思う城 高松城

荒城の月を思うとき、高松城の歴史はその真意、無常を語ってくれます
   

荒城の月を思う歴史と真意

荒城の月を思うとき、高松城の歴史はその真意、無常を語ってくれます。現在石垣や櫓が立派に整備され「荒れ城」という感じはあまりしません。

高松城の歴史

高松城は、讃岐の領主、生駒親正によって築かれた城です。
ここは「野原」と呼ばれる港町でした。
近世的城郭の海城としては、最大の例であり、本丸の天守は天守台より出張っていました。

1588年、築城を開始し、1590年高松城は完成しました。

1639年、 生駒騒動により転封となっています。

1642年、松平頼重が12万石で入封し、城の整備を行っています。
1644年、頼重は、飲料水確保のため水道を造っています。

1669年、3層5階の天守が完成。
頼重はの隠居所として城の近くに栗林公園を造りました。

1671年、 松平氏は城の大改修を行っています。

明治2年、 版籍奉還に伴い廃城となりました。
明治17年、老朽化により天守が破却されました。
昭和20年、 高松空襲で桜御門が焼失しました。

昭和22年、月見櫓、水手御門、渡櫓、艮櫓が当時の国宝に指定されました。
昭和25年、月見櫓、水手御門、渡櫓、艮櫓が重要文化財に指定されました。
昭和29年、高松市に譲渡されました。
昭和30年、国の史跡に指定され、玉藻公園として一般公開されています。
平成18年、日本100名城に選定されました。
平成24年、天守台の補強工事が完了し、披雲閣が国の重要文化財に指定されています。

荒城の月の真意

荒城の月は土井晩翠の作詞によるものです。
土井晩翠の力量は人並み外れたものであり、荒城の月の歌詞はまるで絵を見ているように感じられます。
荒れ果てた城跡の石垣にはツタが生い茂り、夜半には月が照らしていると言っています。
高松城は櫓などが整備され、まず、荒れ果てた城には見えません。
しかしこの高松城の歴史は、荒城の月の真意を語りかけてくれるのです。

土井晩翠は仏教を深く信仰し、仏教の根本概念である「無常」についてよく理解していました。
彼は荒城の月においてこの無常を人々に知ってもらうことを真意としており、絵姿の表現はそのための手段と解されます。
そういう意味からしますと、高松城の歴史はまさに荒城の月の真意を物語っているのです。

無常というのは仏教用語ですが、常が無いと書かれています。「常」と言うのは、いつまでも変らないと言う意味ですので、この世にはいつまでも変らないものは無い、という意味です。

荒城の月、歌詞、四番に、「栄枯は移る」と記されています。
栄えるものも衰えているものも、いずれは移り変わりますと述べているわけです。
土井晩翠は「無常」という言葉の代わりに「栄枯は移る」としてわけであり、その意味は同じです。
荒城の月の真意はここに在るのです。
状景、絵姿の表現も素晴らしいのですが、それ以上に荒城の月は世の「無常」を述べようとしています。

荒城の月を思うとき、高松城の歴史を知れば、その歴史は荒城の月の真意、「無常」を物語ってくれるのです。

参照 高松城(Wikipedia)

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