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荒城の月を思う城 丸亀城

丸亀城の歴史は荒城の月の真意「無常」をよく語っています
   

荒城の月を思う歴史と真意

天守など若干の建物もありますが、高い石垣の上にはほとんど何もありません。荒城の月を思う城姿です。しかしそれよりも城の歴史は荒城の月の真意「無常」をよく語っています。

丸亀城の歴史

室町時代初め頃、 奈良元安が亀山に砦を築きました。

1597年、生駒親正が17万石で高松城を本城としながら、亀山に支城を築きました。
1602年、 6年の歳月を要して現在の形に近い城郭が完成しました。

1615年、 一国一城令が出され、破却の危機にさらされます。
生駒正俊は肝心なところは樹木で覆い、立ち入りを制限するなどして城を破却から守りました。

1640年、 生駒氏がお家騒動をおこしたため転封となりました。

1641年、山崎家治が5万石で入封し、丸亀藩が作られました。
1643年、城の改修に着手しています。これは幕府がキリシタンに備えるためではないかと云われ、幕府は丸亀藩に費用を出したり、参勤交代を免除したりして突貫工事で完成させています。

1658年、 山崎氏が3代で断絶しました。代わって京極高和が6万石で入封し、明治時代まで京極氏の居城となりました。
1660年、高和は搦め手門を大手門に変えています。さらに石垣の端に、現在の3層3階の御三階櫓を作りました。
1673年、32年の歳月を要する大改修がようやく完了しました。現存する大半の石垣はこの際に完成したものです。

明治2年、三の丸の戌亥櫓が焼失しました。
明治10年、今残っている建物以外の櫓・城壁等は解体されました。
大正8年、丸亀市が山上部を借りて、亀山公園としました。
昭和18年、天守が旧国宝に指定されました。
昭和23年、 外濠が埋められました。
昭和25年、 天守が解体修理されました。
昭和28年、国の史跡に指定となり、昭和32年、大手一の門と大手二の門が重要文化財となっています。
平成18年、日本100名城に選定されました。

荒城の月の真意

荒城の月の歌詞は土井晩翠が作詞したものです。
荒れ果てた城の石垣にはツタが生い茂り、月が照らしていると言う様子を実に見事に表現しています。
しかし土井晩翠はそのような情景のほかに、もっと言いたかった真意を持っていたのです。
その真意というのは、世の人々に、「無常」を伝えると言うことです。

土井晩翠は仏教を深く信仰し、仏教の根本概念である「無常」についてよく理解していました。
無常というのは、常が無いと書かれますが、その「常」というのは、いつまでも変らないと言うことを意味しますので、常が無いと言うことは、この世にはいつまでも変らないでいられるものは無いと言うことです。
言い換えれば、この世の中の全ては時間と共に変わっていくと言うことです。
この、仏教でいう「無常」を土井晩翠は人々に告げたかったのです。

荒城の月の歌詞の中に、できれば「無常」という言葉を入れたかったのでしょうが、宗教用語であり、控えたものと思われます。
しかし、荒城の月の歌詞四番に、「栄枯は移る」としています。
これは世の中は変わっていくと言う意味ですから、無常と同じ意味になります。
土井晩翠の荒城の月における真意は、この「無常」を人々に伝えることにあったわけです。
そのために、見事な絵姿を表現しているのですが、この丸亀城の歴史は絵姿以上に「無常」を語っています。

荒城の月を思うとき、丸亀城の歴史は、土井晩翠の言いたかった真意「無常」を物語っているのです。

参照 丸亀城(Wikipedia)

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