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荒城の月を思う城 大洲城

「荒城」とは思われませんが、その歴史は、荒城の月の真意「無常」を語っています
   

荒城の月を思う歴史と真意

大洲城は一部に石垣も残っていますが立派な城姿であり、「荒城」とは思われません。しかしその歴史は、荒城の月の真意「無常」を語っているのです。

大洲城の歴史

1331年、伊予宇都宮氏の宇都宮豊房がこの地に初めて築城したと言われます。
豊房には子がいなかったため、宇都宮宗泰を養子に迎えました。
宇都宮氏は長年南伊予を中心に支配してきましたが、永禄の末期に毛利氏に降伏しています。
天正初年、大野直之によって大洲城を追われました。

1585年、大野直之も小早川隆景によって攻め滅ぼされました。
その小早川隆景が35万石で入城しています。
その後戸田勝隆が城主として入りました。

1595年、藤堂高虎が入城し、近世の城郭に整備しました。
1609年、脇坂安治が入城し、天守をはじめ多くの建物が造られました。
脇坂安治により、「大津」から「大洲」に城名が変わりました。

1617年、加藤貞泰が6万石で入っています。
以後加藤氏が大洲藩主として治め、明治維新を迎えました。

明治維新後、建築物は破却されましたが本丸の天守・櫓は一部保存されました。
しかし天守は老朽化のために明治21年に解体されました。
現在の天守は平成16年に復元されたものです。

昭和32年、台所櫓・高欄櫓などがが重要文化財に指定されました。
昭和40年、 三の丸南隅櫓が解体修理されました。
昭和45年、台所櫓と高欄櫓が解体修理されました。
平成18年、日本100名城に選定されています。
平成23年、天守復元の後、入城者数は30万人を超えている言われます。

荒城の月の真意

荒城の月の歌詞は土井晩翠が作詞しました。
土井晩翠は菩提寺の檀家総代を務める家に育ちましたので、仏教を信仰し、仏教の根本概念である「無常」ということについてよく分かっていました。
「無常」というのは常が無いと書かれますが、この常というのはいつまでも変らないと言うことですから、いつまでも変らないものは無いと言う意味になります。
土井晩翠は、荒城月の歌詞によって、この無常観を世の人々に知ってもらいたかったのです。
荒城の月の真意はこの「無常」を表すことなのです。
これを表すために「荒城」や石垣を使い、まるで絵を見ているように見事に情景を歌っているのです。
しかし、荒城の月の真意はそのような絵姿を表すだけでなく、無常観を伝える所にあったわけです。

荒城の月、歌詞四番をご覧ください。
ここに「栄枯は移る」としてあります。
栄えていても、衰えていても、それらはいつまでも続くことは無く、移り変わっていくと言っているわけです。
「無常」という言葉は宗教用語ですから使いにくく、「栄枯は移る」にしたのではないかと考えられますが、そこが彼の力量です。
栄枯は移るは無常と同じことです。
荒城の月の真意は人々にこの「無常」を知ってもらうことにあったのです。

このように考えて、荒城の月を思うとき、大洲城の移り変わっていく歴史はまさに荒城の月の真意を物語ってくれます。
「無常」を見せてくれるのです。
大洲城の歴史は、荒城の月の真意「無常」を語っているのです。

参照 大洲城(Wikipedia)

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