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荒城の月を思う城 宇和島城

宇和島城は天守が現存しますが石垣だけの所もあります
   

荒城の月を思う歴史と真意

宇和島城は天守が現存しますが石垣だけの所もあります。荒城の月の絵姿を示すとともに、その歴史は、荒城の月の真意「無常」を表している城です。

宇和島城の歴史

941年、警固使である橘遠保がこの地に砦を構えたとされています。
1236年、西園寺公経が現在の城山に砦を築き、当時は丸串城と呼ばれていました。

1585年、豊臣秀吉の四国討伐により小早川隆景の所領となり、隆景の家臣である持田右京が城代を務めました。
1587年、隆景が転封となり、大洲城には戸田勝隆が入城し、戸田与左衛門が城代となりました。
1595年、藤堂高虎が宇和郡を拝領し入城しています。
1596年、高虎は城としての建造を開始しました。
1601年、現在の城が完成し宇和島城と名付けられました。
高虎は城の完成を見届けた後国府に移りました。

1608年、 富田信高が入城しました。
1613年、信高が改易となり、幕府直轄となりました。
高虎が代官となり良勝を城代としました。

1614年、伊達政宗の伊達秀宗が入りました。
1662年、2代藩主宗利は老朽化してきた城の改修を始めました。1671年に改修竣工しています。

明治4年、 明治政府により城は大阪鎮台の所管となりました。
明治33年、櫓・城門などが解体されました。
昭和9年、天守と大手門が当時の国宝に指定されました。
昭和20年、太平洋戦争の宇和島空襲のため大手門を焼失しました。
昭和24年、伊達家は天守と城山の大半を市に寄贈しました。
昭和25年、 天守が重要文化財に指定されています。
昭和37年、天守の解体修理が完了しました。
平成18年、日本100名城に選定されています。
平成28年、国の史跡「宇和島城跡」に指定されています。

荒城の月の真意

荒城の月の歌詞は土井晩翠の作詞によるものです。
土井晩翠は人並み外れた力量を持ち、荒城の月では目の当たりに絵を見ているように感動的な絵姿を思うことが出来ます。
しかし土井晩翠の言いたかった真意はもう少し深いところにあるのです。

土井晩翠は仏教を信仰し、深く理解していました。
仏教の言葉に「無常」という言葉があります。
この無常というのは常が無いと書いてありますが、「常」というのは変わらないと言うことをしめしていますので、世の中にはいつまでも変らないでいられるものは無い、という意味になります。
土井晩翠は荒城の月の歌詞において、この無常を人々に伝えたかったのです。
荒城の月の真意は、「無常」を人々に伝えることにあったのです。

荒城月歌詞四番に、「栄枯は移る」としてあります。
「栄」も「枯」も時と共に変わっていくと言っています。
これは無常と同じ意味になります。
土井晩翠はこの言葉をもって「無常」を伝えたかったのです。
荒城の月の真意は、「無常」を人々に伝えることにあったのです。

このような観点から、荒城の月を思うとき、宇和島城の歴史はまさに「無常」を語ってくれます。
荒城の月の真意「無常」を宇和島城の歴史は物語ってくれるのです。

参照 宇和島城(Wikipedia)

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