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荒城の月を思う城 大野城

石垣さえも壊れかけています。城があったとは思えないほどです。
   

荒城の月を思う歴史と真意

大野城は古代の山城であり、石垣さえも壊れかけています。城があったとは思えないほどです。しかし大野城の歴史は荒城の月の真意「無常」を語ってくれています。

大野城の歴史

『日本書紀』には次のような意味合いが記されています。
663年、白村江の戦いで、倭の国と言われた日本の百済復興軍は、朝鮮半島で新羅連合軍に大敗しました。
664年、対馬島や壱岐島、筑紫国などに城を作りました。
665年、日本を守るために筑紫国に大野城と基肄城を築きました。
667年、大和國に高安城を築き、讃岐国に屋嶋城をつくり、対馬国には金田城を築きました。
中大兄皇子は翌年に天智天皇となっています。

大野城は、唐の新羅連合軍に大敗したため、大和朝廷が倭防衛のために築いた城です。
城郭の設計をおこなったのは亡命した百済人でした。

大野城は、大宰府政庁跡の北側にある、標高410メートルの四王寺山に作られました。
山頂を中心に尾根から谷を巡る土塁や石塁でつくられ、城壁の長さは、約6.8キロメートルに及びます。
城域は日本一の大規模な古代山城です。

2006年、 日本100名城に認定されています。百間石垣や増長天礎石群などの遺構があります。
増長天礎石群は四棟の礎石建物跡で、見学者が多いです。

大野城市の名称は、大野城跡によるものです。
平成15年、豪雨により土砂災害が発生し、約30か所で遺構の復旧が行われています。
九州管内の城や瀬戸内海沿岸の城も、計画的に築かれたもので、七世紀後半という遠い昔に日本が取り組んだ一大国家事業だったのです。

このような古代山城の目的は、対外的な防備としての軍事機能だけであると考えられていましたが、地方を統治するための拠点としても使われたのではないかと言われています。

「四王寺山」の名前は、外敵駆逐としての護国の寺、四王寺の建立によるものです。
後に、伽藍は現在の毘沙門堂に変わっています。
また、十二世紀には多くの経塚が造営されていますし、十八世紀末には要所に三十三観音の石像が安置されています。

荒城の月の真意

大野城は千年以上も前に日本を守るために作られた城の一つです。
どのように役立ったのか詳しくは分かっていませんが、当時の人々の真剣な働きによって作られたことに間違いはありません。
長い歴史の中でその役目は終わり、日本の国の中で戦う戦国時代となり、やがて江戸時代から明治にと変わってきているわけです。

荒城の月の歌詞に「栄枯は移る」という言葉があります。
この言葉は、荒城の月の真意を表しているのです。
荒城の月の歌詞は土井晩翠が作詞したのですが、土井晩翠は仏教を深く信仰し、「無常」についてよく理解していました。
無常というのは、変わらないものは無いと言う仏教の根本概念です。
土井晩翠はこの「無常」を人々に伝えたかったのです。
荒城の月の真意は、この無常を表すことにあるのです。
栄ていても、衰えていても、それらはいつまでも続くことは無いというのが「栄枯は移る」であり、「無常」とおなじことです。

荒城の月の歌詞をその絵姿で見た時には、石垣にツタが這い、月が昇ってくると言う非常に綺麗な絵姿が思い浮かべられます。
しかし荒城の月はもっと深い意味を持っているのです。
「無常」を人々に知ってもらいたいと言う真意があるのです。

大野城の歴史は私たちの心を打ちます。
荒城の月をそのような観点から思うとき、大野城の歴史は「無常」をはっきりと語ってくれるのです。

参照 大野城(Wikipedia)

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