荒城の月TOP荒城の月を思う城

荒城の月を思う城 名護屋城

ツタや草が生い茂った石垣があり、荒城の月を思う城です
   

荒城の月を思う歴史と真意

唐津市にある城跡。現在ツタや草が生い茂った石垣があります。荒城の月を思う城ですが、荒城の月はこのような絵姿のほかに「無常」を伝えたいと言う真意を持っています。

名護屋城の歴史

1587年、豊臣秀吉は九州を平定しました。
1590年、達政宗を服属させ、小田原征伐を行いました。
徳川家康を関東に移つし、天下統一をしました。
国内の統一を果たした豊臣秀吉は、世界に目を転じるようになりました。

1591年、「唐入り」決行を全国に告げ、名護屋に前線基地を作ることにしました。
築城は九州の大名に命じられました。さらに全国の諸大名が城普請に取りかかりました。

1592年、完成しました。当時の城郭としては大坂城に次ぐ広大なものとなりました。

総勢15万8000の兵が編成され、朝鮮半島へ出兵しました。
秀吉は京都聚楽第から当地に来ました。
在城中、諸将に指示を出しながら、曲輪に築いた茶室で楽しんだりしていました。
秀吉の唐入りの間、肥前名護屋は日本の政治の中心地となっていました。

1598年、秀吉が没した後、全軍撤収となり、名護屋城はその役割を終えました。
朝鮮撤退後は寺沢広高が治めることになりました。
1602年、広高は唐津城に城を作ることにしました。この時、名護屋城を解体し、その材料を使用しています。

これ以降、再び城が使えないようにするため、要となる石垣を切り崩すなど解体が進められました。
大手門は伊達政宗に贈与され、仙台城に移つされたといわれます。

名護屋城の周辺には実に118ヵ所の陣跡が確認されています。
うち65ヵ所にはその遺構が残っており、23箇所が特別史跡に指定されています。
平成18年には日本100名城に選定されています。

荒城の月の真意

荒れ果てた城跡には石垣だけが残り、草やツタが生い茂ると言うまさに荒城の月を思う城跡です。
しかし、荒城の月はこのような絵姿のほかに、人々に伝えたかった真意があるのです。
それは「無常」ということを世の人々に知ってもらいたいと言う思いです。

無常というのは仏教の言葉ですが、これは、世の中には変わらないでいられるものは無いと言う意味になります。
荒城の月の歌詞は土井晩翠の作詞によるものですが、土井晩翠は仏教を深く信仰し、仏教の根本概念である「無常」についてよく理解していました。
彼は出来ることなら、荒城の月の中に直接「無常」という言葉を入れたかったのでしょうが、これは仏教用語であり、ためらったのではないかと思われます。

しかし、荒城の月の歌詞、四番に、「栄枯は移る」としました。
「栄」も、「枯」もやがては移るとしたわけです。
これは無常の意味と同じです。

荒城の月で土井晩翠が言いたかったその真意は、この「無常」なのです。
確かに非常に綺麗な情景をまるで絵を見ているように表現していますが、それ以上に、荒城の月において「無常」を世の人々に伝えたかったのです。
荒城の月を思うとき、名護屋城の歴史はその移り変わりの姿をもって、荒城の月の真意「無常」を静かに語ってくれるのです。

参照 名護屋城(Wikipedia)

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