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荒城の月を思う城 熊本城

立派な城姿です。しかしその歴史は荒城の月の真意「無常」を表しています。
   

荒城の月を思う歴史と真意

熊本城は熊本市にある城で、立派な城姿をしています。とても「荒城」には見えません。しかしこの熊本城の歴史は、荒城の月の真意「無常」をよく表しています。

熊本城の歴史

1469年、肥後守護菊池氏が千葉城を築いたのが始まりです。
1521年、菊池氏は隈本城を築き、寂心が入りました。
1542年、勅額の下賜を得ています。
1550年、守護菊池義武が隈本城に入りました。
しかし、義鑑の子・大友義鎮により追われました。
その後は城親冬が居城としました。

1587年、豊臣秀吉の九州征伐の時、城久基は城を明け渡しました。
佐々成政は新たに肥後の領主となり隈本城に入りました。
しかし検地を強行したため、肥後国人一揆を起こしてしまいました。
この時隈本城は猛攻を受けましたが、落城はしていません。

1588年、成政は切腹しました。変わって、加藤清正が19万5,000石で隈本城に入りました。
1591年、加藤清正は、隈本城の茶臼山丘陵一帯に城郭を築きはじめました。
1600年、天守が完成しています。
1607年、「隈本」を「熊本」に改めました。これが現在の熊本城となっています。

1632年、細川忠利が領主となり熊本城に入りました。
細川忠利は熊本城の修繕を開始しました。この修繕は建築物の修理にのみでなく、本丸の増築や二の丸の整備も行われました。
上級家臣の下屋敷地や三の丸や壺川地域が開発され、62の櫓が立ち並びました。

明治3年、熊本城の解体が決まっていましたが、作業開始当日、解体は凍結されることになりました。
この時から城内は一般に公開されることになりました。

明治4年、廃藩置県により、熊本県庁が二ノ丸に置かれ、老朽化した櫓、多重櫓は破却されました。特に西出丸は石垣まで取り崩し、郭自体を破却しています。

昭和8年、熊本城の現存建築が「熊本城」とし国宝に指定され、城跡は「熊本城跡」として国の史跡になっています。
昭和20年、熊本大空襲などでは、奇跡的に焼失を免れています。
昭和30年、「熊本城跡」として国の特別史跡に指定されました。
昭和35年、熊本市は大小天守や平櫓、塀などを再建し、公園としました。天守は鉄筋コンクリート造りです。
平成18年、日本100名城に選定されました。
平成28年、の熊本地震被災しています。
天守閣の修復は3年、全体の修復は20年かかると言われます。

荒城の月の真意

荒城の月の歌詞は土井晩翠の作詞です。
土井晩翠は仏教を信仰し、深く理解していました。
荒城の月の歌詞は非常に綺麗な情景を表しています。
荒れ果てた城の石垣にはツタが生い茂り月が昇ってくると言う絵姿です。
しかし土井晩翠がこの荒城の月において本当に伝えたかった真意はもっと深いところにあります。
それは、仏教の言葉、「無常」です。

無常というのは、常が無いと書かれますが、その「常」というのは、過去も未来も変化しないと言う意味ですので、「無常」は、世の中には変化しないものは無いと言う意味になります。
土井晩翠はこのことを伝えたかったのです。
綺麗な情景にもまして、この「無常」を伝えたいと言う真意があったのです。

荒城の月歌詞四番に、「栄枯は移る」とされています。
これは無常と同じ意味になります。
無常観を示したかったのです。

荒城の月を思うとき、熊本城の歴史は、荒城の月の真意、「無常」を見事に物語っているのです。

参照 熊本城(Wikipedia)

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