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荒城の月を思う城 府内城

府内城の歴史は荒城の月の真意「無常」を物語っています
   

荒城の月を思う歴史と真意

大分城とも言われますが、堀や櫓があり、荒れ城には見えません。しかし府内城の歴史は荒城の月の本当に言いたかった真意、「無常」を物語っています。

府内城の歴史

1597年、豊臣秀吉家臣の福原直高が築城を開始しました。
この地は船の荷役を行っていた場所であったため、地名を「荷揚」とし、城の名を荷揚城としました。
1599年、荷揚城が完成しました。
しかし直高は転封され、早川長政が入城しました。

1601年、その長政が改易となり、竹中重利が入城しました。竹中重利は荷揚城の大改修を始めました。
1602年、天守と諸櫓、山里曲輪及び内堀が完成しました。
1605年、外堀が完成。
1607年、 笠和口、堀川口などの門が完成し、概ね大改修が終了しました。

1634年、 重利の子・重義は切腹し、日根野吉明が入城しました。

1656年、吉明が没し稲葉信通が城代となりました。
1658年、松平忠昭が入城しました。以後、明治維新まで松平氏の居城となりました。

1743年、大火により天守など大部分の建物が焼失しました。
明治5年、城内に大分県庁が置かれました。
昭和20年、 大分空襲のため櫓数棟が焼失しました。
昭和40年、 東丸着到櫓、二重櫓、西丸二重櫓、大手門が復元されています。
平成8年、廊下橋を復元されました。
平成18年、日本100名城に選ばれました。

荒城の月の真意

荒城の月は瀧廉太郎の作曲ですが、歌詞は土井晩翠が作りました。
土井晩翠は大変すばらしい絵姿を表しています。まるで本当の絵を見ているように思えます。
荒れ果てた城の石垣にはツタが生い茂り、月が照らしているなどの状景を見事に表現しています。
しかし、荒城の月で表したかったのは、そのような情景だけではありません。もっと深い意味の真意があるのです。
その真意というのは、荒城の月を介して、「無常」を人々に伝えると言うことです。

土井晩翠は仏教を深く信仰し、仏教の根本概念である「無常」についてよく理解していました。
無常は、常が無いと書かれますが、その「常」というのは、いつまでも変らないということです。
このため「無常」は、いつまでも変らないことはあり得ない、という意味になります。
仏教の考え方であり、このことを知ってもらいたかったのですが、荒城の月の歌詞の中に直接入れることは避けました。
宗教用語を入れるのを避けたのだと思われます。

しかし、荒城の月歌詞四番を見てください。
「栄枯は移る」としてあります。
「栄」も、「枯」も、時と共に変わっていくと言っているわけです。
これはまさしく「無常」を意味しています。
土井晩翠の荒城の月は、素晴らしい絵姿はもちろんですが、この「無常」を人々に伝えることを真意としているのです。

府内城は大分城とも言われますが、どれだけ変化してきたか先に記した歴史をご覧いただければご理解いただけることと思います。
府内城の歴史は「無常」そのものです。

荒城の月を思うとき、府内城の歴史は荒城の月の真意「無常」を語ってくれるのです。

参照 府内城(Wikipedia)

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