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荒城の月を思う城 飫肥城大手門などが再建され石垣も残っています |
荒城の月を思う歴史と真意飫肥(オビ)城は日南市にある城跡です。大手門などが再建され石垣も残っています。あまり「荒れ城」という感じはありませんが、この城の歴史は、荒城の月の真意「無常」を語っています。飫肥城の歴史飫肥(オビ)城は日向の地に、南北朝時代、武士団として勢力を伸ばした土持氏が築城したのが始まりといわれます。鎌倉時代から伊東氏の南下に備えて、島津氏の一族である新納忠続が入城しました。 戦国時代初期は島津氏の属城であり、築城主の土持氏が治めていました。 1484年、伊東氏が土持氏を裏切り飫肥に侵攻しました。 島津氏は、領土の割譲と飫肥城主の交代ということで和解しました。 この結果、飫肥城は島津豊州家の支配となりました。 しかし、伊東氏の執念は凄まじく、伊東氏による飫肥侵攻は時々起こされています。 1567年、飫肥城を奪取した伊東義祐は、子である祐兵に飫肥の地を与えました。 1572年に伊東氏が没落し始めると、日向国全土を島津氏が治めるようになり、飫肥は再び島津氏が支配することになりました。 伊東氏は没落してしまったと思われましたが、伊東祐兵が羽柴秀吉に仕え、功績を挙げたため再び飫肥の地を取り戻すことに成功し、大名として復活しました。 伊東氏は、関ヶ原の戦いでは東軍側として参戦しこの地を守り切りました。 伊東氏と島津氏の2勢力が、1つの城を巡って争い続けたのですが、これは103年の長きに及びます。 このような例は日本の戦史において希なことです。 大名となった後の伊東氏は、廃藩置県となるまで飫肥の地を守り通しました。 1977年、飫肥城下町は、「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されています。 1978年、大手門が復元され、御殿を模した歴史資料館が建設されています。 2006年、日本100名城に選定されています。 城下町時代の道路や地割が保存地区内には良好に保存され、石垣や土塀で囲まれた武家屋敷跡が残っています。 荒城の月の真意荒城の月の歌詞は土井晩翠の作詞によるものです。土井晩翠は檀家総代を務めた家に生まれ育ちましたので、仏教を信仰し、深く理解していました。 仏教の根本概念に、「無常」という言葉があります。 この無常を伝えようとしてのが、土井晩翠の荒城の月の真意なのです。 無常というのは、常が無いと書いてありますが、この「常」というのはいつまでも変らないと言う意味ですので、「いつまでも変らないことは無い」という意味になります。 言い換えれば、全てのものは変わっていくのだと言うことです。 荒城の月は素晴らしい絵姿を見せてくれます。土井晩翠の力量の表れです。 しかし荒城の月はそのような情景、絵姿だけを表しているのではありません。 世の中は無常なのだと言うことを伝えようとしているのです。 これが.荒城の月の真意なのです。 荒城の月の歌詞四番に、「栄枯は移る」としてあります。 「栄」も、「枯」も時と共に移るとしています。 これは正に「無常」を言っているわけです。 土井晩翠は「栄枯は移る」によって、「無常」を表したのです。 荒城の月の真意は、「無常」を人々に伝えるということなのです。 戦い続け、変わり続けた飫肥(オビ)城の歴史は荒城の月の真意「無常」を語っています。 荒城の月を思うとき、飫肥城の歴史は無常を静かに語ってくれるのです。 参照 飫肥城(Wikipedia)
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