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荒城の月を思う城 鹿児島城堀と石垣だけとなり、建物は無くなって、「無常」を語っています。 |
荒城の月を思う歴史と真意鹿児島城は堀と石垣だけとなり、建物は無くなっています。荒城の月にいう情景を思う城です。しかし荒城の月は情景だけでなく、「無常」について伝えたいと言う真意を持っています。鹿児島城の歴史1601年、島津忠恒により築城されました。薩摩国の島津氏は関ヶ原の戦いで敗北し、忠恒(家久)が新当主となっていました。 1604年、徳川家康の脅威に対抗するため、鶴丸城(後の鹿児島城)を完成しました。 忠恒の父、義弘はこの地は防御に問題があるとして、築城に反対していましたが城は作られました。 しかし家康の薩摩征伐は行われず、薩摩藩は存続を許され外様大名となりました。 幕末の薩英戦争では、イギリス軍艦から砲撃を受けました。しかし、この城は簡素だったため、寺を天守と間違えて砲撃したようです。 鹿児島は災害の多い地域と言われます。このためか幾度も焼失したり倒壊したりしていますが、そのたびに建て替えが行われました。 明治7年、大火により焼失してしまいました。この後は再建されていません。 城址は高等学校に使用されたり、戦後は鹿児島県立大学などに使われています。また城跡は鹿児島県史跡となっています。 現在は、鹿児島県歴史資料センター黎明館、鹿児島県立図書館、さらに鹿児島市立美術館や鹿児島県立博物館などが建っています。 平成18年、日本100名城に選定されました。 鹿児島城の城下町は、現在の鹿児島市を構成する元となりました。 荒城の月の真意荒城の月の歌詞は土井晩翠の作ったものです。土井晩翠は詩を造る技量は人並み外れており、この荒城の月の歌詞でも、ありありと絵姿を私たちの目の前に表してくれます。 荒れ果てた石垣にはツタが生い茂り、月が昇ってくるなどまるで絵を見ているようです。 しかし、荒城の月はこのような絵姿を表現しているだけでなく、もっと深い真意を持っているのです。 それは、世の中は「無常」であることを人々に伝えたいと言う思いです。 土井晩翠は仏教を信仰し、深い理解を持っていました。 仏教には「無常」という言葉があります。 常は無いと書かれますが、「常」というのは、いつまでも変らない、ということを意味しますので、「無常」は、変わらないものは無い、という意味になります。 言い換えれば、全てのものは移り変わっていくと言うことです。 このことを人々に伝えようとするのが、荒城の月の真意なのです。 鹿児島城は幾度も再建されたり、焼失したりしています。移り変わっているわけです。 これは「無常」を表しています。 荒城の月を思うとき、鹿児島城の歴史は、荒城の月の真意、「無常」を見事に語ってくれるのです。 参照 鹿児島城(Wikipedia)
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