荒城の月を思う城 久保田城

平成に入ってから御隅櫓や本丸表門が復元されています
   

久保田城

久保田城は、現在の秋田市千秋公園近辺にあった城です。現存するものは南外堀など一部のみになっていますが、平成に入ってから御隅櫓や本丸表門が復元されています。

久保田藩初代藩主である佐竹義宣は湊城に入城しました。
この湊城は元、秋田氏の居城でしたが、この城は手狭であり久保田城の前身である窪田城を築城することになったのです。

神明山に築城を開始するとともに城下町を作り、主要道の整備も行いました。
1604年 本丸が竣工し、湊城から新築の窪田城を本城としました。
1633年ころ、「窪田城」から「久保田城」へ改称しています。

1776年出火により、穴門、西矢倉門、東矢倉門、表門、本丸御殿まで延焼しました。
その後本丸修築まで、藩主義敦は三ノ丸下中城の渋江敦光邸を住居としています。
1781年には本丸御殿を修築完成させています。

明治元年、久保田藩は新政府軍を支持していたので庄内藩や盛岡藩から攻撃を受け、領内の大半が戦場となりました。
特に庄内藩には城下12kmの椿台まで迫られましたが、庄内藩が撤退したため久保田城は戦禍を免れました。

明治2年、城地は陸軍省の管轄となり、同4年には久保田藩を秋田藩、久保田城下町を秋田町と改称しました。
さらに同5年には、本丸を秋田県庁にしています。

ところが、1880年(明治13年) 大火により城内の建物がほぼ全焼してしまいました。

明治23年、 陸軍省から佐竹氏に城跡が払い下げられましたが、本丸と二の丸を秋田市が佐竹氏から借り受け公園城跡として整備、「千秋公園」となりました。

このように歴史を紐解いてみますと、仏教でいう「無常」そのものだと分かります。
いつまでも同じ状態では居られないと言うことです。
荒城の月の歌詞に詠われている「栄枯は移る世の姿」はまさにこういうことを言っているように思えてなりません。

参照 久保田城(Wikipedia)

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