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実在と存在実在は永遠に変化しないもの、存在はあると思えるもの |
実在と存在の違い実在は永遠に変化しないもの、存在はそこにあるように思えるもので時間とともに変化するもの。存在するとはどういうことかと哲学では相当議論されました。 仏教哲学では実在と存在は異なると考えています。 概念というのは頭の中で考えられるということですが、具体的な例で示してみたいと思います。 数学でグラフを書くとき、X軸を書いてそれより上とか下とか言います。 鉛筆で書くX軸は太さがありますが数学においてはその太さはありません。 概念としては考えられますが太さがないのですから実在するとは言い難いことです。 0より上は全部プラスで、0より下は全部マイナスです。 ではその「0」はどれだけの大きさを持つのでしょうか。それこそ大きさは「0」です。 おおきさの無いものが実在すると言えるでしょうか。 でもそこに「0」がなければプラスとマイナスの境目はありませんから「0」の所は存在しなくてはなりません。 概念とはそのように頭で描ているものを言います。 さて仏教では「実在」とは、永遠に変わらないものであり、この世にはそのようなものは無いと言っています。 ここに在るように見える「存在」は「空」(くう)としての存在であり、時間とともに変化していると表現されます。 この世の中にあるものは全て時間とともに変化していくと言っているわけです。 ここに在る物体も、苦しみもすべて永遠に続くものではないのです。 諸行無常とはそのことを言っています。 この世にあるものはすべて変化していくと。 荒城の月の「栄枯は移る世の姿」もそのことを言っています。 では仏教においは「実在」するものはあるのでしょうか。 一つだけあります。 それは宇宙の力であるホトケの働きです。 「仏」とも言うことがありますが、「仏」はブッダすなわち釈尊個人を表す場合と、宇宙の力であるホトケの働きを示す場合とがあります。 この働きは未来永劫変わることは無いからこれだけは実在すると言っているわけです。 星が生まれ、星が無くなっていく、地球も無くなるかもしれませんがそれは宇宙の働きであり、ホトケの働きです。 これのみが実在するものであり、これは目には見えません。 他の宗教でも「神の力」などといわれているのと同じような意味だと思います。 目に見えるもの、聞こえるもの、感じられるものこれらは今ここに存在はしますが永遠に変わらないものではありませんから実在するものではないのです。 「在るけれども無い」と言われるのはそういう意味です。 「色即是空」というのもここに在るものは全て「空」としてあるだけだ、と表現しているのです。 荒城の月作詞者の土井晩翠は、家が菩提寺の檀家総代であったこともあり仏教に精通しておられたと思います。 更に色々の作詞をするにあたり恐らく周到な調査なども行われたに違いありません。 土井晩翠は荒城の月の歌詞の中で、「栄枯は移る世の姿」や、「昔の光今いずこ」を詠って「無常」を示すとともにさらに「天上影は変わらねど」と言っています。 この「天上影」の意味はホトケの働きではないかと私は解釈しています。 仏教の心を熟知しておられたからこそ、このような感動的な詩を作ることが出来たのではないでしょうか。
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