三浦環は荒城の月を変えた

三浦環に頼まれた山田耕筰は原曲から#を取っています
   

三浦環と荒城の月の編曲

三浦環は日本で初めての国際的なオペラ歌手。蝶々さんで有名。三浦環に編曲を頼まれた山田耕筰は瀧廉太郎の原曲から#を取っています。
この編曲結果が現在歌われている「荒城の月」です。
原曲も物悲しい響きを持っていますが、この編曲は日本人に好まれる曲となっています。

三浦環

三浦 環(みうら たまき)、1884年(明治17年)生まれ。
3歳の頃から日本舞踊を習い始め、6歳の頃から長唄と箏を習い始めています。
その後、東京女学館に入学しましたが、そこで東京音楽学校出身の音楽教師から音楽家になることを強くすすめられました。
そして1900年(明治33年)に東京音楽学校に入学し、瀧廉太郎からピアノを教わり、幸田延に声楽を習っています。

1903年(明治36年)、日本人による初めてのオペラ公演に出演し、成功を収めました。
東京音楽学校を卒業後、奨学金を得て研究科に入り、声楽を教えるようになりました。
その後、助教授となっていますが、この間に山田耕筰を指導しています。

結婚後ドイツからイギリスに渡り、更に渡米してボストンで初めて蝶々さんを演じました。
好意的な批評を得て、その後『蝶々夫人』や『あやめ』をニューヨークやサンフランシスコなどで演ずることができました。
三浦環はメトロポリタン歌劇場に迎えられた最初の日本人歌手となったのです。

シカゴやイタリアでも歌手活動を続け、世界を舞台に活躍しています。

荒城の月の編曲

荒城の月は、土井晩翠作詞、瀧廉太郎作曲なのですが、その原曲には1つだけ♯(シャープ)が付いていました。
瀧廉太郎は勉強家であり色々の知識を持っていました。
日本にはその当時なかったメロディーにして、寂しさや侘しさを表現したかったのだと思いますが、そのために1か所シャープを付けたのです。

東京音楽学校の橋本国彦助教授は、
  滝廉太郎の原曲は「花のえん」の「え」の個所に#がある。
  これはジプシー音階の特徴である。
  外国の人は日本の旋律ではなくハンガリー民謡を連想する。
と、語ったようです。

三浦環は外国で歌う機会も多かったため、教え子である山田耕筰に日本の曲らしく編曲してほしいと頼みました。
三浦環に編曲を頼まれた山田耕筰は#を取ったのです。
外国で歌う機会の多い三浦にとってはその方が良いと思ったからでしょう。
荒城の月の原曲は8小節からなっていますが、山田は以前に16小節に直していました。
その結果、16小節で、シャープの無い曲となり、これが大好評となって定着してしまったのです。
現在歌われている「荒城の月」はこの編曲によるものです。

編曲を実行したのは山田耕筰ですが、そうさせたのは三浦環であり、三浦環が荒城の月を変えたとも言えるでしょう。

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