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荒城の月 昔の光の「光」光とは何か、宗教的な面、物理学的な面からとらえてみました |
昔の光の「光」荒城の月では「昔の光」とか「変わらぬ光」とか、「光」が何回も出てきます。光とは何か、宗教的な面、物理学的な面からとらえてみました。(本来荒城の月では「光」を「様子」という意味で表現していると解釈していますが)本来荒城の月では「昔の光」を「昔の様子」、例えば昔の栄華の様子とか、勢力を誇っている様子とかという意味で表現していると解釈していますが、ここではもう少し違った面、光とは何か、宗教的な面、物理学的な面からwikipediaを参考に考えてみました。 宗教的な面 光は色々な思想や宗教のもとで超越的存在者として扱われることが多くあります。 古くから光は宗教に登場しており、太陽と結び付けられているが多くあります。 新プラトン主義では、光の強弱や濃淡を、世界の多様性を示しているとしており、哲学と神秘主義が合わさった形になっています。 またプロティノスは「一者」「叡智」「魂」の3つの原理から世界が成り立っていると説明しています。 「一者」は、それ自体把握され得ないものであり光そのもの 「叡智」は「一者」を映し出している太陽 「魂」は「叡智」を受けて輝くもので月や星であるとしています。 『新約聖書』ではイエスにより「私は、世にいる間、世の光である」(ヨハネ福音書 9:5)と語られています。 またイエスは「あなたたちは世の光である」とも言っています。 また、父なる神が光源であり、光がイエスである。 イエスは人々の魂を照らすのであり、光による照明が人に認識を与えるのだとされました。 この思想はキリスト教世界の思想に様々な形で影響を与えています。 仏教では、光は、仏や菩薩などの智慧や慈悲を象徴するものとされています。 物理的な面 「光は粒子なのか?それとも波なのか? 」 という問題が長い間解決されませんでしたが、20世紀に「量子力学」という分野のりろんによってようやく解決しました。 「光は粒子でもあり波でもある。粒子と波の両方の性質を併せ持つ、量子というものである」とされたわけです。 「光は〈粒子性〉と〈波動性〉を併せ持つ」とも言われます。 アインシュタインは光子の概念を提唱し、これは現在でも用いられていますし、 マクスウェルにより光波は電磁波であることが示されたました。 その後、「光は量子というものである」とされるようになり、 「光は〈粒子性〉と〈波動性〉を併せ持つ」と言われるようになったのです。 荒城の月では 少なくとも上記の物理的意味では使われていません。 本来荒城の月では「光」を、昔の栄華の様子とか、勢力を誇っている様子という意味で表現していると私は解釈しています。 ただ、「変わらぬ光」は、上記宗教的面の「仏教では、光は、仏や菩薩などの智慧や慈悲を象徴する」という意味も含んでいるような気がしてなりません。 私はこのように、荒城の月の歌詞、「変わらぬ光」は、「仏や菩薩などの智慧や慈悲を象徴する」意味を持っているものと解釈しています。
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