荒城の月 城主

城主は大名だったと思われます
   

城主

荒城の月の城、城主はどのような人だったのでしょうか。城主を限定することは出来ませんが、ある程度の推定はできます。城主は大名だったと思われます。

荒城の月の作詞者は土井晩翠です。

歌詞一番で「高楼」と「花の宴」を言っています。
このことから城主はどのような人だったかある程度の推定が出来ます。

城というのは当然戦いのための要塞です。
戦国時代から江戸時代末期までの時代的範囲になります。

戦国時代の初めのころ作られた城はまるで武器庫のようなもので、とにかく戦いのための要塞です。
普段は人の数は少なく、戦いが始まるとなると大勢の兵士が詰めかけ自分の領土を守ったわけです。
このころの城主というのはその城には常駐していなかったと思われます。

高楼というのは高い建物という意味で、いくら高くても単なる火の見やぐらのような構造物を示すのではありません。
高楼は立派な建物で、天守を意味するのが普通です。

すると、荒城の月で言う城は天守を備えていた城と考えられるわけです。

徳川家康により5重以上の天守は国持ちの有力大名に限られたとされています。
徳川幕府による一国一城令により天守も同様に許可なく新たに造営することが禁じられています。

そうして「花の宴」ですが、これは非常に大規模な宴が行われたことを思わせます。

これらを考え合わせると、城主は大名であったと推定するのが一般的ではないかと思います。
大名といえども限られた城主のみが新しく天守を作ることが許されたようです。
幕府から認定されている天守を持った大名の城はたくさんありますがその中に
  仙台藩- 仙台城・白石城
  会津藩 - 若松城・猪苗代城
があります。

土井晩翠は仙台に住んでいて仙台城になじみがあったと思われます。
仙台城は青葉山にあったため、青葉城と言われています。
青葉城の城主は伊達政宗で62万石の大名です。

以上のことから推定して、荒城の月にいう城は、青葉城で、城主は伊達政宗を指していると解釈するのが最も理解できるのではないでしょうか。
しかし土井晩翠はどこの城とはっきり言い切っていないのはそれなりの理由があるものとも考えられます。
それは、この詩を見る人に自由に想像してもらった方が良いと考えたのではないかとも解釈できるからです。

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