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荒城の月の「城」青葉城ではなかろうかと言われています |
荒城の月の「城」はどこの城荒城の月の「城」はどこの城を指しているのでしょうか。荒城の月は昔栄華を誇っていた城も今は見る影もなく荒れ果てているという意味を言っていますが、その城は青葉城ではなかろうかと言われています。荒城の月は土井晩翠作詞、瀧廉太郎作曲、山田耕筰変曲によって作られた曲ですが、土井晩翠はどこの城跡をイメージして作詞したのか諸説あります。 これらの中で最も有力なのは、土井晩翠の住んでいた仙台の青葉城だろうという説です。 私もそうだと思いますが、青葉城とはどんな城だったのか調べを進めてみました。 青葉城 青葉城は現在の宮城県仙台市青葉区の青葉山にあった城であり、仙台城と言われます。 青葉山にあるため、地元では「仙台城」ではなく「青葉城」または「青葉城址」と呼ばれますが、2003年には史跡「仙台城跡」として登録されています。 青葉城は伊達政宗が作ったとされていますが、青葉山には、伊達氏以前から城がありました。 初めは千体城、後に千代城(センダイジョウ)と称し、島津氏や国分氏が住んでいました。 今の仙台は、この城の城下町であったところから、センダイと言われ、仙台になったようです。 山城と平山城 戦国時代までは、高い山の上に作る山城が主な防御施設として築かれていました。 戦国末期には、平城とともに平山城が現れ始め、江戸時代後期までに多数が築かれました。 この平山城は小高い丘の上にある城で、防御的な機能と政庁の役割を併せ持ち経済の中心的役割も果たすことができました。 青葉城(仙台城)、江戸城、大阪城、姫路城、熊本城などの近世の城の多数がこれに当たります。 伊達政宗は戦闘の防御能力も備えながら、城下町の経済の中心ともなるように築城したわけです。 青葉城が廃城となったわけ 江戸時代が終わり、明治となった明治4年に「大日本帝国陸軍」の部隊が仙台城を本営にして駐屯したことが廃城の始まりです。 このとき本丸が破壊され、石と木が兵舎建設に流用されました。 後に第二師団が置かれ、1882年火災が発生し大手門、脇櫓、虎ノ門を除くほとんどの建物が焼失してしまいました。 堅固な城であって戦いに敗れたことは無く、明治に近づき平和になってきたためであり、戦火によって廃城となったのではありません。 結局青葉城が廃城となったのは陸軍による取り壊しだったのです。 さらにその後、第二次世界大戦の仙台空襲により、修復されていた部分も消失してしまいました。 しかしその理由はどのようであれ、昔は栄華と勢力を誇っていた城が今は無くなっていることに間違いはありません。 土井晩翠はこの姿を見て荒城の月を作詞したのではないでしょうか。
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