荒城の月 作詞の意図

土井晩翠の作詞の意図はどこにあったのか
   

作詞者の意図

荒城の月は瀧廉太郎の作曲ですが、作詞者は土井晩翠です。土井晩翠の作詞の意図はどこにあったのか考えてみたいと思います。

何事でもそうですが、たいていの場合、何かを成し遂げたいと考え、次にそれを成し遂げるための手段を考えるわけです。

荒城の月の歌詞を作った土井晩翠は何を語りかけようとしてあのように感動的な詩を作ったのでしょうか。
何を語りかけようとしたのかというのがここでのテーマ―です。
要するに作詞者の意図はどのようなところにあったのかということです。

直接聞いてみるわけにはいきませんから、出来上がっている歌詞からその意味を解釈し、作詞の意図を推定しなくてはなりません。
要約しますと、

一番は栄華を誇っていたけれども今はその影も残っていない
二番は権勢を誇っていたのに今はその影もない
三番は昔も今も変わらない月の光は誰のためか
四番は天の力は変わらないけれども人の世は変わっていく

と、いう意味のことを述べています。
これは疑う余地のない「栄枯盛衰」、「諸行無常」を詠っているわけです。

しかし私は単に世の中は変わるものであると言いたかっただけではないような気がするのです。
もちろんそれは言っているのですが、言外に何かを感じるのです。

孫悟空が筋斗雲に乗って千里の道を行ってきたのに、それは結局お釈迦様の手の中で泳いていたにすぎなかったという話があります。
証拠があるわけではないのですが、荒城の月の歌詞の中にこのような意味合いを感じるのです。

「人間始め全てのものは、神の力の中で生かされている」ということを言外に伝えようとしたかったのではないでしょうか。
「天上影」と「誰がためぞ」の言葉にその意図を感じるのです。

私の勝手な解釈で間違っているかもしれませんが、「諸行無常」を表現しながら、「神の力」をにじり込ませようと土井晩翠は意図したのではないかと思います。

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