「分別」と「無分別」の違い

土井晩翠は仏教について無分別の域に達しておられたのかもしれません
無分別について記します
   

無分別

荒城の月で「栄枯は移る」となっていますが、この作詞者土井晩翠は仏教について無分別の域に達しておられたのかもしれません。「無分別」について記してみます。

「分別」、「無分別」という言葉は仏教から生まれた言葉ですが、仏教では重要な意味を持っています。

普通には「あの人は分別のある人」で物分かりが良いなどの意味で使われます。
「無分別」とはあまり言われませんが、もし言われれば、その逆の意味に解釈されがちです。
しかし仏教では「無分別」と言う言葉をそのような意味では使いません。

仏教ではこの分別が邪魔ものなのです。
分別があるために自己中心的になり、自分が認識しているものを「そこにある」と信じ、煩悩が生まれるのです。
煩悩は何々がほしいなどの要求を生み出し、それが得られないと悩みを生じる元となります。

ブッダはものの本質を見抜き、「空である」と教えています。
これがなかなかわかりません。分かったというのはまだ知識として分かったということであり、分別の域を出ていません。
このことを理解し、知識として承知した後、自分の身体が覚えこみ、承知していることさえ認識しなくなってくると「さとり」の境地に達したと言われます。
言葉で表現できるものではありませんが、無分別の境地とはそのようなところだと思います。

この「無分別」の境地では、分別が無くなったわけではありません。
ちゃんと物事を認識し分別するのですが、その分別をそのまま受け入れ、「固執しなくなる」という意味です。
分別の無いところではなく、分別の本質を明らかに見ることによって、分別が障りにならないということです。
分別を超えた知恵と言う意味で「無分別智」と言われます。

土井晩翠と言う人は、あのような見事な詩を作られたことから見て、ひょっとしたらこの「無分別」の域にまで達しておられたのかもしれないと思うのです。

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