悟り(さとり)

土井晩翠は悟りの境地に居られたかも
   

さとり

荒城の月の作詞者土井晩翠と言う人は、あのような見事な表現で世の本質を言い切っていることから見て、ひょっとしたら仏教の悟りの境地にまで達しておられたのかも知りないと思います。悟りについて記してみます。

「悟りとはどういうことか」を記述することは本来不可能に近いと思います。
ただ私の知識としての「悟り」について記すことしかできません。
釈迦(ブッダ)の悟られたことを他の人が悟るのは並大抵のことではないのです。
何十年も修行して初めて得られることなのです。

しかし「悟り」とはどのようなことなのか、大体のことを記すことはできるかもしれません。
結局のところは、分別をこえ、分別をしながらもそれにとらわれる事の無い「無分別の域」に行くということだと思います。

釈迦自身が悟りに至られた筋道を簡単に紹介します。

釈迦は皇太子でしたがその身分を捨て、出家されます。
出家後多くの哲学者や宗教家の教えを請い、自ら苦行に専念して身も心もぼろほろになっている時、、村娘スジャータから乳粥の供養を受けてはっと気づき、河向こうの菩提樹の下で悟りを得られたと伝えられています。
釈迦は当初、自身が悟ったことは他人には理解できないと考え、自分でその境地を味わうのみに留めようとされたのですが、思い直して人々に伝えることにしたのです。

その悟りの体験を言葉をもって人に伝え、人々をその境地に導き、この悟りに到達してもらうことが仏教の根本目的なのです。

釈迦の悟りの内容は、四諦といわれますが、実践の面では八正道や三学(戒・定・慧)として説かれました。
悟りは、言葉の説明で理解される知的側面だけではなく、実践を通じて初めて体得できるものなのです。

時代が進むにつれ釈迦の教えを更に拡大し、大乗仏教になっていきます。
釈迦の説かれたのは僧侶など自分のために教えられたことでこれを小乗仏教と言います。
これに対して大乗仏教は更に他の人々の苦悩をも救うことを目的とするようになってきています。

話が仏教のことばかりになりましたが、この仏教では「世の中全て常であるものは無い」と言っています。
全てが変化していくと言っているわけです。
土井晩翠はこのことを身に付けていたからこそ、荒城の月の歌詞を作詞できたのではないかと私は解釈しているのです。

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