物体が光を遮るため地面などにできる暗い領域のことですが、
心の中に描くものを指すこともあります
   

影(かげ)は、何らかの物体が、光を遮る結果、壁や地面にできる暗い領域のことを言いますが、心の中に描くものを指すこともあります。

物理現象としての影

影は、物体や人などが、光の進行を遮るためにできる、壁や地面の暗い領域のことです。
その影は、その物体や人の輪郭に似たものとなりますが、地面など、影ができる面の角度に応じて、すこし違った像になります。
例えば夕日に映る自分の影は大変長くなりますし、真昼時の影は短くなります。

影は物理現象としては、光の直進性から生まれのですが、光の波長と影の原因となる物体の大きさによって輪郭がくっきりしているかぼやけているかの違いが生じます。
通常光の波長は原因となの物体よりはるかに小さいため輪郭の明瞭な影になります。
しかし電波は、本質的に光と変わりない電磁波ですが、人などに比べて波長が非常に長く、輪郭はぼやけてしまうか影そのものが生じません。ビルの蔭などになると、TV電波の波長の方が少し小さくなるため電波障害が起きますが、これは光の場合にいう「半影」に相当する現象になります。

心の影

人間の「魂」について、様々な解釈がありますが、魂自体と、「魂の影」という考え方があります。
魂の影とはどのようなものであるのか、魂がどのように観念されているかによって、色々な把握があります。

古代ギリシア語の「プシューケー」は、「魂の影」または「人の影」というような意味を持っていました。
幽霊と呼ばれているものは、弱々しく儚い影の現象ともいえます。

影ははかない魂であり、自分自身で自分の影を見ることは、死を予告しているとも言われます。
自分の姿を夢のように見ることは死の自覚であるとされました。

影は、宗教的な意味を持ち、人の生死と関係しています。
人の生死は、肉体的な意味と、心理的な意味があり、自己の死を通過し、新しい自己に生まれ変わるとも言われています。

荒城の月における「影」

荒城の月歌詞一番は、もちろん栄華な様子を言ってるのですが、
  「影さして」
を、今一度見てみますと、意外なことに気が付きました。

当然月明りに松の枝が影として映っている様子だと考えていたのですが、「影がさす」という言葉にはもう一つ別の意味があります。
  不吉なことが起こりそうな気がする。
  この先どうなるか分からない。
などという意味があります。

土井晩翠はおそらくそのような意味で使っているのではないとは思いますが、「栄枯は移る世の姿」を最終的には表現したかったのですから、初めに「影さして」と、このことを予告していたのかもしれないと思えたのです。
考えすぎでしょうか。

この解釈は私自身そうですが、あまり聞いた事の無い解釈です。
多分考えすぎと思いますが、そんな風にも考えられるということを記しておきます。

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