戦国時代の兵士

戦国時代、有事に兵士は集められました
   

戦国時代の兵士

戦国時代、有事に兵士は集められました。戦いのための兵士は城に常駐していたわけではありません。兵士は農民などから集められたのです。

兵士とは

兵士は今も昔も同じ意味ですが、戦闘組織の構成員であり、指揮官からの命令に従って戦う人のことです。

日本の国家としては徴兵制度が設けられ適齢の成人男性が対象となりましたが敗戦により1947年(昭和22年)徴兵制度は廃止されました。

しかし昔の戦国時代の兵士は国家を守るものではなく、城主の支配する地域を守ったり、他の地域を攻め取るために戦うことを目的としていました。

兵士の集め方

主君に仕えていた武将たちはそれぞれ身分に応じて領地を治めていました。
そのため各々の武将がどれだけ兵士を集めるかというのもある程度決まっていました。

その集められた兵士というのは実はその領地に居た農民です。
いざ戦いの準備を始めるとなると、各武将はその領地の長に何人集めろと指示します。
誰が選ばれるかは大抵の場合その長の判断に任されていたようです。
しかし農民ですから農作業があります。
このため農繁期には戦がしにくいという弱点もありました。

そのような出陣命令はたびたびあることですし、半農半士といえどそこそこ経験豊富なつわものも多かったようです。
鉄砲や弓などは城主から支給されましたが、身を守るものはほとんど支給されなかったようです。
現実に私の実家には、先祖から伝わるものだと言って、鎖帷子(くさりかたびら)と槍がありました。
鎖帷子は7〜8mmくらいの鉄の輪をつなぎ合わせて長袖の服のようになっています。
手を通してみたこともありますが、ずっしりと結構重いものだという記憶があります。
鎧もあったとのことですが、親戚のだれかが持って行ってしまったらしく、私が見た覚えはありません。

このようにして集められた兵士は城に入る場合もありますし、各地方で別々に集まり、一つの目的地に向かって行進していったのです。
徳川家康の要請で伊達政宗は兵を整え大阪に向かいますが、仙台や江戸から仙台城に集まり大阪に向かった兵士もありましたが、途中で続々集まってきたと文書に残されています。

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