悟り

煩悩が無ければ悟りも無いと言われています
   

煩悩と悟り

悟りは「煩悩即菩提」で語られることがあります。煩悩があるからこそ悟りも得られるのだと言っています。

仏教では、煩悩即菩提(ぼんのう そく ぼだい)として示されています。

悟り(菩提)とそれを妨げる迷い(煩悩)とは、ともに人間の本性の働きであり、煩悩がやがては悟りの縁となることであるといっているのです。

ここで、誤解しそうなところがあります。
「煩悩即菩提」ですから、煩悩は是即ち菩提と考えたくなりますがそう考えてはいけません。
煩悩は私たちの欲望の心のことで、菩提は悟りの境地を意味しています。
煩悩=悟り と解釈してはいけないのです。

大乗仏教によりますと、すべての衆生は何かしら欲求を持って生活せざるを無いと認めています。
これは、煩悩を完全に滅することは不可能とであるということです。
それでこそ、すなわち煩悩があるからこそ悟りを求めようとする心も生まれるのだと言われるわけです。
小乗仏教の煩悩を無くすれば悟りが得られるという言い方とは少し違います。

大乗仏教になる前は、煩悩を無くすることが悟りにいたる道だと言われていたのです。

どちらが本当なのでしょうか。
私の解釈はそのどちらも正しいという解釈になります。

煩悩を無くするというのは、煩悩を制御するという意味に考えるからです。
小乗仏教では、煩悩を制御することが出来るようになれば悟りが得られると言っているのですが、
大乗仏教では制御された煩悩があるならば悟りが得られると言い換えただけのことです。

煩悩を滅するの意味を煩悩を無くすると解釈してはいけません。
煩悩を制御できるようになるということです。

言葉のアヤであって、ブッダの言いたかったことは、制御できるようになりなさい、ということだったのです。

悟りと色即是空

般若心経に「色即是空 空即是色」とあります。
この色というのは物質的な世界を表します。物質的な世界は、固定した実体がない空であり、それ自体がすべて真如のあらわれであると言っています。
逆に言えば、この空の世界が、そのままこの世に存在するすべて物質的なものであると言っています。
したがって、煩悩がなければ、悟りの概念もないわけです。
それゆえ、煩悩を離れて菩提(悟り)は得られないのです。
また逆に、悟ることが出来なければ煩悩から離れることも出来ないと言っているわけです。
このことを「煩悩即菩提」と言うのです。

また、悟りも煩悩もその本体は真実不変の真如のあらわれなわけです。
言い換えれば、煩悩にしても悟りにしても、その根源は人を生み出している大自然の働きの中にあるということです。

重ねて申し上げますが、
煩悩を制御できれば悟りが得られ、
悟りを得るには煩悩を制御しなければならないのです。
この制御された煩悩こそ悟りなのです。

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