自然の力

自然の力とは宇宙にある人智を超越した力
   

自然の力

自然の力とは宇宙にある人智を超越した力という意味です。自然の力は宗教として神の力とされていることが多いです。

自然

自然(しぜん)という言葉は私たちは何の抵抗もなく使っていますが、「自然とはどういうことか」と聞かれると、はたと困ってしまいます。
自然を定義づけるのはなかなか難しいのです。
wikipediaによりますと自然には次のような意味があるとされています。(抜粋)

 a 人為が加わっていない、ありのままの状態、現象
 b 人も含めた天地・宇宙の万物
 c 天然造成物を考えた場合のそれらを引き起こす主体

aは人が作った物ではなく「自然につくられたもの」との意味です。
bはこの世にある全てのものの意味になります。
cはその全てのものを作り引き起こしている「主」と言うことになります。

荒城の月で土井晩翠が「天上影は変わらねど」と言っているのは、cの意味を込めているものと思われます。
天地万物を作り出している自然の力は変わらないけれども、と言いたかったのだと思います。

仏教でいう大日如来

仏教では何々菩薩や何々如来などという言葉が使われていますが、一番奥におられるのが大日如来だと言われています。
観音菩薩は如来になる資格はあるのに、人々に教えを説くため自ら菩薩にとどまっているのだと言われますし、阿弥陀如来は菩薩たちをまとめている位置におられ、大日如来は如来には如来なのですが、色々の如来たちをまとめられています。

大日如来は「無相の法身と無二無別なり」と言われます。
意味は、姿・形の無い永遠不滅の真理そのものと不可分である、ということになります。
すなわち、「永遠不滅の真理そのもの」であるということです。

宇宙とはあらゆる存在物を包容する無限の空間と時間の広がりであり、そのことを指しています。
ただ一つだけ加えておかなければならないことがあります。
宇宙はただ黙っているかもしれませんが、大日如来は宇宙の働きを持ちながらも、人々に説法しようとしていることです。

大日如来は、無限宇宙に周遍しておられながら、広大無辺な慈悲を万物の上に与えられているわけです。
三世(過去・現在・未来、前世・現世・来世)にわたって常に説法しておられるとも言われます。

少し難しいですが、
   六塵の本は法仏の三密即ち是れなり
この意味は
  この六種の対象の本質は、宇宙の真理としての仏の身体・言語・意識の三つの神秘的な働きこそがそれである
と訳されています。
六種というのは
  視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚・思考
を表します。

自然の働きこそ仏の働き

自然の「力」ではなく、自然の「働き」と表現してみました。
単に力を持っているだけでなく、そのうえで説法しようという働きを持っているという意味を込めて、私が「働き」と解釈したものです。
大日如来は自然すなわちこの宇宙の源でありながら、絶えず人々を救うために説法されているというのが私の解釈です。

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